見出し画像

「重檻房」に学ぶ(2) 懲戒検束権

「日本のアウシュビッツ」と呼んでも過言ではない、草津の栗生楽泉園の「特別病室」とは名ばかりの「重檻房」の実態は、残酷非情なものであった。

多くの療養所には高いコンクリートの塀や生け垣、空堀で入所者を閉じ込めた。逃走したり、規則に違反した人を懲らしめる監禁室もあった。それに重檻房を加えたのだから三重の監禁システムである。極悪非道の罪人を収監したのではない。園長ら療養所の独裁権力に抗った者が、罪なくして見せしめのため裁判もせず、園長の権限で自由を奪われた。
「病室」とは名ばかり。医師の診療はなく、治療らしい治療もなかった。それどころか、標高千メートルの寒冷地に暖房がなく、日々の食事は幼児の握りこぶしほどの量の麦飯が2度、おかずは梅干し1個かたくあん2切れ。凍死か餓死か心身を壊すか、「死ねよ」と言うに等しい。“殺人監獄”であった。
実際、1947(昭和22)年に撤廃されるまでの9年間に93人が収容され、22人(23人とする説もある)が獄死もしくは衰弱して出獄後間もなく死亡している。
それなのに、誰一人として責任を問われていない。投獄を命じ、収容にかかわった人だけでなく、人名を救うのが務めの医師らは何を考え、なぜ、蛮行を止めなかったのか、逆に発覚後は隠ぺいする策動まであったと聞く。

『ふれあい福祉だより』(第21号 特集「なかったことにはさせない」重檻房の罪業)の「グラビア」に書かれた解説である。8ページにわたり「重檻房」の実際の写真や記録写真が掲載され、短い解説が付されている。

本冊子には、資料として<①高田孝『日本のアウシュビッツ』・付『刊行にあたって』谺雄二 ②復刻・瀬木悦夫「特別病室」>が掲載されている。重檻房発掘に関わった宮坂道夫・藤野豊・黒尾和久の4氏の論考も問題点が整理されていて一読に値する。本冊子は「社会福祉法人 ふれあい福祉協会」に問い合わせれば、入手可能である。

栗生楽泉園は1887(明治20)年以降、患者たちが自由に生活していた湯ノ沢集落を解体し、強制収容することを大きな目的としていた。さらに重檻房には全国から不穏分子とにらまれた患者が、“草津送り”の名で送り込まれてきた。死ぬまで出られぬと恐れられた“殺人監獄”。強制隔離策の非道さや残虐性を象徴する存在となった。

重檻房が設置されたのは1938(昭和13)年であり、1947(昭和22)年までの9年間運用された。日中戦争から太平洋戦争の終結、戦後までの戦争動乱を時代背景にもつ。戦時下という非常時は人々はもちろん政府にとっても「ハンセン病療養所」や「ハンセン病患者」に目を向ける余裕などなかった。このことは光田健輔ら療養所園長・施設側にとっては好都合であったともいえる。


ここで、それまでのハンセン病に関する重要事項を年次的にまとめておく。

明治6年(1873年)
・ノルウェーのハンセン医師が「らい菌(ハンセン菌)」を発見
明治40年(1907年)
・「癩予防ニ関スル件」公布
放浪するハンセン病患者の療養所への収容を目的として制定される。
昭和4年(1929年)
ハンセン病患者をゼロにする目的で「無らい県運動」が行われ、患者を療養所へ強制的に入所させる運動が官民一体となり社会的にすすめられる。
昭和6年(1931年)
・「癩予防法」公布 
国立の療養所が各地に建設され、在宅患者など、すべてのハンセン病患者の隔離がすすめられる。
昭和18年(1943年)
・ アメリカで「プロミン」という薬がハンセン病治療の特効薬であることが報告される。
昭和22年(1947年)
・ 国内でハンセン病治療に「プロミン」の使用がはじまる。
昭和28年(1953年)
・「らい予防法」公布
「癩予防法」を改正した法律。患者隔離政策は継続され、退所規定が設けられなかった。

私は「日本のハンセン病史」(ハンセン病政策の歴史)を3段階で考えている。
①「癩予防ニ関スル件」が公布されるまで 
②「癩予防ニ関スル件」および「癩予防法」公布による法的強制力に基づく隔離政策
③ハンセン病特効薬「プロミン」の使用が開始されて以降 の3段階である。

各時期・期間については別項にて考察したい。ここでは、「重檻房」の背景となった②と③に関して若干の考察を行っておきたい。

②の時期は、ハンセン病が「感染症」であることが国際的に承認され、隔離政策が対策として実施されていく。それは諸外国が柔軟な隔離政策をとるのに対して非常に強権的な施策であった。宮坂道夫氏は、その理由(背景)を次のように考察している。

植民地を「持てる側」の一員になろうとアジア近隣地域への支配を進めながら、背後には植民地に「される側」の象徴ともいえるハンセン病が蔓延している。アジア近隣諸国を基準に考えれば、およそ3万人いたとされる日本のハンセン病患者の数は、目立って多いわけでもなかった。しかし、欧米の「文明国」を基準に考えれば、その数は「国辱」と思えるほど多いものだった。アジアにありながら「文明国」であろうととし、欧米と肩をならべようとしたこの時代の日本には、多数のハンセン病患者を一挙に消し去ろうという風潮が生まれやすい二重基準があった。こうして、次第に軍国主義の風潮が強まっていくなかで、同時代の世界のどこにもないような強力な隔離政策が行われていく。
日本のハンセン病政策における強制隔離は、様々な国でとられた隔離政策のなかでも、群を抜いて強力なものである。本人の意志によらず隔離する「強制隔離」であるだけでなく、生涯にわたって隔離を続ける「生涯隔離」であり、症状の軽重にかかわらず例外なく隔離し、たとえ完治しても隔離を解かない「絶対隔離」である。だから「生涯絶対隔離」とも呼ばれてきた。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

1909(明治42)年、全国を5区に分けて、青森・東京・大阪・香川・熊本に5つの公立ハンセン病療養所が設置された。第一区 全生病院(東京都 後の多磨全生園)、第二区 北部保養院(青森県 後の松丘保養園)、第三区 外島保養院(大阪府 後の邑久光明園)、第四区 大島療養所(香川県 後の大島青松園)、第五区 九州療養所(熊本県 後の菊池恵楓園)である。その後、入所者が増加したため、1930(昭和5)年,内務省管轄で日本初の国立のらい療養所として「国立らい療養所長島愛生園」(岡山県)が設立され、1932年には「栗生楽泉園」(群馬県)、1933年には「宮古療養所」(沖縄県)など全国に13ヶ所の国立のハンセン病療養所が作られた。さらに、韓国に「小鹿島(ソロクト)更生園」、台湾に「台湾楽生院」、満州国に「同康院」を建設した。

国際らい会議では開催される度に「強制隔離」の方針を弱めていく方向に各国が向かうのに対して、日本は逆に強化する政策をとっていく。ハンセン病療養所を拡張し、多くの患者を収容できるようにし、1935年に政府は20年間でハンセン病を根絶する計画を採用した。これを受けて各地方自治体で「無らい県運動」が本格化していく。

「無らい県運動」の結果、各療養所には収容人数をはるかに越える患者が送り込まれ、戦時体制下の中、患者たちは住居・食糧の不足、看護師や施設職員の不足、医療品の不足などに苦しむことになる。当然、隔離された施設に不満を持つ者、職員の対応や管理に反発を募らせる者、脱走・逃走を行う者が増えていく。それらに対処するために造られたのが「監房(監禁所)」であり、さらに「重檻房」であった。
それを可能にしたのが、1916(大正5)年の「癩予防ニ関スル件」の一部改正によって、療養所長に与えられた「懲戒検束権」であった。

患者懲戒・検束に関する施行細則(大正6年12月12日)
第一条 療養所ノ長ガ被救護者ニ対シ懲戒又ハ検束ヲ行ハントスルトキハ本則ノ規定ニ依ル
第二条 懲戒又ハ検束ハ左ノ方法ニ依リ執行ス
一 譴責 叱責ヲ加ヘ誠意改悛ヲ誓ハシム
一 謹慎 指定ノ室ニ静居セシメ一般患者トノ交通通信ヲ禁ズ
一 減食 主食並ニ副食物ヲ減給ス
一 監禁 独房ニ拘禁検束ス
第三条 懲戒又ハ検束ハ違反者ノ性状ニ応ジ、宣告ノ上執行ス
第四条 大祭、祝日、療養所祝祭日及違反者ノ父母祭日ハ特ニ懲戒又ハ検束ノ執行ヲ免除スルコトヲ得。父母ノ訃ニ接シタルモノハ、其日ヨリ三十日以内其ノ執行ヲ免除スルコトヲ得
第五条 懲戒又ハ検束ノ執行中特ニ改悛ノ状著シキ者ハ、其執行ヲ免除スルコトヲ得
第六条 数人共同シテ違反行為ヲナシタルトキハ其行為ニ就キ同一ノ責任ニ任ズ。人ヲ教唆シテ違反行為ヲナサシメタル者ハ実行者ニ同ジ。人ノ違反行為ヲ幇助シタルモノハ主動者ニ比シ軽減ス
第七条 同時ニ数個ノ違反行為ヲナシタル者ハ重キニ依リ処分ス
第八条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ譴責又ハ三十日以内ノ謹慎ニ処ス
一 構内ノ樹木ヲ毀損シタル者
二 家屋其他ノ建造物若ハ備付品ヲ毀損又ハ汚トクシタル者
三 貸与ノ衣類其他ノ物品ヲ毀損又ハ隠匿シ、若ハ構外ヘ搬出シタル者
四 虚偽ノ風説ヲ流布シ人ヲ誑惑セシメタル者
五 喧嘩口論ヲナス等所内ノ秩序ヲ乱シタル者
第九条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ三十日以内ノ謹慎又ハ七日以内ノ減食ニ処シ、若ハ之ヲ併科ス
一 猥ニ構外ニ出デ、又ハ所定ノ無毒地ニ立入リタル者
二 風紀ヲ乱シ又ハ猥褻ノ行為ヲナシタルモノ又ハ媒介シテ之ヲ為サシメタル者
三 職員ノ指揮命令ニ服従セザル者
四 金銭其他ノ物品ヲ以テ博戯又ハ賭事ヲナシタル者
五 違反者ニ対スル懲戒又ハ検束ノ執行ヲ妨害シタル者
第十条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ七日以内ノ減食又ハ三十日以内ノ監禁ニ処シ、若ハ之ヲ併科ス
一 逃走シ又ハ逃走セントシタル者
二 職員又ハ其他ノ者ニ対シ暴行又ハ強迫ヲ加ヘ、若ハ加ヘントシタル者
三 他人ヲ煽動シテ所内ノ安寧秩序ヲ害シ、又ハ害セントシタル者
第十一条 前条各号ノ一ニ該当シ必要アリト認ムルトキハ管理者ノ認可ヲ経テ三十日以上二ヵ月以下ノ監禁ニ処ス
第十二条 被救護者逃走シタルトキハ其懲戒又ハ検束ハ欠席ノ儘宣告スルコトヲ得。前項ノ場合ニ於テ懲戒又ハ検束ノ執行ハ収容後之ヲ行フ。但シ宣告後一年ヲ経タルトキハ之ヲ免除ス。前項但書ノ期間内ニ他ノ療養所ニ収容セラレタルトキハ其執行ヲ委任スルコトヲ得。前三項ノ規定ハ逃走シタル者ノ他ノ違反行為ニシテ未ダ懲戒又ハ検束ノ執行ヲ終ハラザルモノニ付キ之ヲ準用ス

これら日本のハンセン病政策を推進してきた人物が、光田健輔である。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。