光田健輔論(52) 「三園長証言」の考察(1)
私が「光田健輔論」を書く目的は、光田健輔の人物像を描くことでも、彼の業績や人物の評価でもない。まして光田の人間性や人格について言及するつもりはない。
私の目的は、光田健輔の<ハンセン病史における影響>を明らかにすることである。国賠訴訟及び検証会議によってハンセン病問題の全容はほぼ明らかにされたが、なお私には疑問が残っている。それは、光田健輔が与えた<影響>の解明である。
ハンセン病問題は光田健輔一人の責任ではないが、彼の功績のみを讃える論説も、時代的責任性に帰着させる論説も、あるいは光田の人間性や人格との相殺を主張する論説も、私には問題の本質論から逸脱していると思える。
私が明らかにしたいと考えているのは、光田の言動が引き起こしたハンセン病問題に関係する人々への<影響>である。日本のハンセン病政策は、政治家・官僚・皇室・医師・職員など多くの人間によって組織的あるいは法制度的につくりあげられ、その運用と運営もまた複雑に絡み合った人々の「思惑」の中で遂行されてきた。そこには考えの異なる者や意向に沿わない者を排除したり、患者を高圧的に抑圧・支配したり、大義の名によって強権的な命令を行使したり、忖度させたりしてきた。そして、ハンセン病対策の創生期から戦前・戦中・戦後の長期間に渡って、常に中枢にいて<専門家・権威者>として君臨したのが、光田健輔である。
なぜ、政治家や官僚、専門医や看護婦(師)、職員や関係者たちは、光田健輔の影響を受け、彼の意向に沿うような政策に従ったのだろうか。戦前・戦中そして戦後、「大義」は変わったにもかかわらず、医療も社会情勢も大きく進展したにもかかわらず、なぜ光田に<呪縛>され続けたのだろうか。しかも、彼らの多くはその<自覚>すらなかった。
その要因を、光田の功績や人間性に求める者もいる。「権威」「権力」に求める者もいる。時代のせいにする者もいる。どれも一理はあるが、それだけでは後世への<教訓>とはならない。事実、「コロナウィルス」問題において<教訓>は必ずしも生かされなかった。
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「三園長証言」を考察する前に、その背景、特に光田健輔らの意向と国策への<影響>について、藤野豊の説明を抜粋して引用しておく。
国賠訴訟の熊本地裁判決においても、「三園長証言(発言)」が、結果として、新法(「らい予防法」)の内容に反映され、その後のハンセン病行政にも大きな影響を与えたと認めている。さらに評価においても「新しい時代にまったく逆行して患者の解放に歯止めをかけようとする証言」「当時の日本のらい医学専門家の時代錯誤の見解」「患者を罪人扱いして取り締まるという潜在意識が働いたと言われても仕方がない」等々、厳しいものであった。(内田博文『ハンセン病検証会議の記録』)
1953年8月、全癩患協の患者代表たちが、炎天下、厚生省前で抗議の座り込みをおこなうなかで旧癩予防法と基本的に変わらない新法「らい予防法」が成立した。隔離政策は継続され、監禁規程は削除されたが懲戒規程は残された。その背景には、従来より指摘されてきた「三園長証言」が強く影響している。
1951年10月22日、参議院厚生委員会に設置された「癩に関する小委員会」の会合で、日本のハンセン病患者の分布状況、療養所の諸種の問題、患者収容に対する問題、ハンセン病の予防・治療の問題、貞明皇后の記念事業の問題、国立癩研究所設置の問題などについて学者・専門家を参考人として厚生委員会に招致して意見を聞くことを決定した。これにより、11月8日、第12回国会参議院厚生委員会にハンセン病に関する5人の学者・専門家が参考人として出席し意見を述べた。これが「三園長証言」である。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。