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差別の罪過(1) 「山梨県一家9人心中事件」

実はもう一つ、少なからず「三園長証言」および「無らい県運動」に影響を与え、何より全癩患協に大きな衝撃を与えた事件がある。この事件の余波はさまざまな形で人々の心に深い傷を残した痛ましい事件として歴史に刻まれている。

…戦後の「無癩県運動」の渦中にあった1951年1月27日深夜、山梨県下でハンセン病患者の一家心中事件が発生し、29日の朝、遺体が発見された。事件を報道した1月30日付『山梨日日新聞』によれば、この一家は、27日、23歳の長男が県立病院でハンセン病と診断され、その日の夕方には村役場から家中を消毒すると通告されていた。結果、それを苦に、両親と兄弟姉妹併せて一家9人が青酸カリにより服毒自殺したのである。父親が社会に宛てた遺書には「国家は社会はそうした悲しみに泣く家庭を守る道は無いでせうか」と書かれてあった。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

続けて、藤野は事件の新聞報道や全癩患協による「実際調査についての陳情書」(代表渡辺清二郎)、また療養所当局の見解などを検証し、原因と事件後の影響について考察している。

…渡辺は、山梨県衛生課、多麻村衛生関係者、韮崎保健所関係者の「癩患者に対しての処置が適切でなかった」ことを指摘し、特に、一家心中の翌日に保健所が「同家に対し大々的な消毒を行う予定であった事」をあげ、「心なき衛生関係者の不注意と不誠実を如実に物語って居りまして」、こうした行為は「山梨県に於てのみではなく、各県にて私達入園者の家族の受けた幾十の例が判然と物語って居ります」と、家に対する消毒が、一家心中の引き金ではなかったかと、強い抗議の意志を表明している。…
…多摩全生園庶務係中村四郎と全国癩療養所職員組合協議会事務局員井上務が現地に赴き、山梨県衛生部や関連する保健所・村役場、患家周辺の村民、山梨日日新聞社などで真相の調査をおこない、二月五日、「癩家一家心中の実態調査報告」を、全生園長林芳信と全癩協議長に提出してる。その趣旨は、事件について、「勿論、癩と云う問題は、その原因に大きな役割を占めてはいたであろう」と認めるが、それは父親のハンセン病を遺伝病と考えた知識不足や一般国民の認識不足ということに局限した「癩の啓蒙運動の不徹底が、かもしだした悲劇」という理解に止まり、むしろ、「一家心中の直接原因が新聞で指摘されて居る様な所轄官庁の処置、或いは秘密の漏洩でなく」と、長男がハンセン病と診断され、保健所から消毒通告を受けたことが一家心中の原因であることを否定する。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

藤野は、「『無癩県運動』のもとで患者の摘発、そして徹底的な消毒、こうした実態が、ハンセン病への恐怖感を住民に植え付け、患家を絶望の淵に追い込んだ」のではないかと推論する。

しかし、私は、最初にこの事件を知って以降、事件に関係する研究者たちの考察なども読んできたが、どこか腑に落ちない気持を抱いてきた。
確かにハンセン病の知識や認識の不足が恐怖感をかき立て、患家に絶望感を生じさせたであろうことは想像に難しくないが、それでも一家心中にまで至るだろうか。長男がハンセン病であることがわかって、わずか1日で、長男不在の中で一家心中を決意している。

<連名の遺書>の最初には「死の言葉、生活の光明を失う人生の優生学上から見た人類の悲衰(哀)を永遠に絶つべく一家を全滅して今後のうれいを絶つ」とある。<父親から社会にあてた遺書>には、次のように書かれていた。

私の一家はこうして死んで行く。されば社会が過去のなした悲哀に泣く、遺族にさしのべる手が余りにも冷ややかであった、然しこれも伝染する病であってみればやむを得ない、取りわけ遺伝説の高い現在では一層そうであるのは仕方がない、然し国家は社会はその悲しみを如何に見ているでしょうか、国家は、社会はさうした悲しみに泣く家庭を守る道は無いのでしょうか、ただ病に泣く本人らであるから国家はもう一歩進んでこれ等悲しみに泣く人々を救うの道を考えるべきではないでしょうか、医療施設は、社会の人の教育は、道義は考えれば幾多救うべき道は出来てくる

この「遺書」の他に、長男(23歳)から婚約者宛、長女(21歳)および三女(17歳)の友人宛の短い遺書が残されているが、覚悟を決めた文面が逆に悲しみを誘う。父親の遺書からは「ハンセン病の知識や認識の不足」は感じられない。「医療施設」という言葉から「ハンセン病療養所」の存在も知っていたのではないだろうか。それでも、なぜ死を選んだのだろうか。しかも一家心中である。

その答は、伊波敏男『夏椿、そして』の中にあった。この事件について書かれた「黒い案山子」が収録されている。
「一家心中に値するほどの『うれい』とは、一体何を指しているのかだろうか?この疑問解明の手がかりを求めて、悲劇発生の現地を、自分の足で踏もうと思った」伊波敏男のルポルタージュである。
役場住民課を訪ね、当家の住居跡、隣地の元小宮山医院を歩き、近隣の老農家に話を聞く様子が淡々と描写されている。留守であった菩提寺と連絡が取れて再度の訪問まで、伊波の記述はまるで自分もそこにいるかのような叙述である。
新たな発見もないままに帰路の駅に向かっていたタクシーの車中で、伊波は運転手から思いもかけない言葉を耳にする。

「人間は、いつまでも馬鹿な思い違いを引きずったままですねー。わたしの近くには、今でもそのこと(ハンセン病)が問題にされる所があります」「ここの県民は、この地名を言うだけで、今でも眉をしかめます」

伊波敏男『夏椿、そして』

その小さな集落を見下ろす山道に車を止めて、外に出た伊波は運転手からその集落について話を聞く。運転手さんの話を抜粋して引用する。

「ここは、集落の名前も変えられました」
「新町村合併による地名変更になっていますが、この忌まわしい地名を捨て去りたかったのでしょうね」
「ですが、年寄りたちは、昔の地名でしかこの地名を呼びません」
「寄合では、よくここらあたりの昔話を聞かされます。酒の席の話ですが、親父たちが若い頃、この集落では年頃の娘を持つ母親たちが、夜這いを心待ちしていたそうですよ」
「いや、真顔でしたよ。娘を孕ましてくれると、嫁に迎えざるを得なくなるからだそうです。ばかばかしい話に聞こえますが、つらい話です…。お客さん、あの橋ですね、わたしが小さかった頃は丸木橋でしたよ。大人たちから、その橋を渡ってはならない。あの集落へは決して、足を踏み入れてはならないと、教え込まれていました」
「なーりんぼーです。いやな響きですね」
「時代の流れで少しは変わりました。日常普段のつき合いは、そんなことは、おくびに出さずに、行き来するようになりましたよ。でも、婿取り嫁取りになると、途端に正体を現します。ダメですねー。特に年寄りたちには根強く残っていますよ。あの村は『統』が悪いと言って…」
「血統の、統ですよ」

伊波敏男『夏椿、そして』

伊波は心に引っかかっていた「疑問」が解けた思いをする。そして、それは私の腑に落ちなかった気持の「答」でもあった。

一家心中したM家のこんな近くに、「血統の穢れ」に縛られ、排除されつづけた人たちがいた。
「アッ、これだ!」
一家心中へ突き進んだ「謎」が、私には一瞬にして解けた。
家族の発病は、即、あの丸木橋を渡り、橋の向こう側に所属することを意味する。ハンセン病の烙印を捺され、貶められるであろう家族の未来が、こんな身近に、そして、日常生活で見せつけられていた。未来の生き証人たちが、この地域にいたのである。
ひとは他に優ることを誇りとする。もし、「血累の穢れ」により、未来永劫にわたって、社会排除の構図から逃げられないと思い込んだ時、ひとは、一体、どのような道を選ぶのだろうか?
一家を全滅させ今後の憂いを絶つ?それとも、別の選択肢?50年経過した今もなお、語ることがはばかられている、小さな村の傷跡。
「病」は本来、個を対象とする苦痛や悲しみである。しかし、「病」が「係累」にまで及び、社会排除の刻印を背負わされた「病」がある。今なお、「血筋」や「家」の倫理感に結びつけられ、その生贄にされつづけている典型例が「ハンセン病」である。

伊波敏男『夏椿、そして』

伊波の一文を読んだ時、ようやく私は納得することができた。父親の「遺書」の意味を解することができた。「優生学上から見た人類の悲衰(哀)」も「遺伝説の高い現在では一層そうであるのは仕方がない、然し国家は社会はその悲しみを如何に見ているでしょうか、国家は、社会はさうした悲しみに泣く家庭を守る道は無いのでしょうか」という<慟哭>も、未来への絶望もよくわかる。ハンセン病を発病した長男が療養所に入所することで解決するような問題ではない。残された家族を襲う近隣からの排除・排斥、差別と偏見の視線が未来永劫にわたって続くことを、今まで自らがそうしてきた「集落」の姿を重ね合わせたとき、そこには絶望しかなかったのだろう。

私は長く部落問題に関わってきた。「部落」にも「血統」「血筋」がつきまとう。理不尽な差別と偏見が周辺の人々によって、排除・排斥とともに語り続けられてきた。賤視と忌避は、ただ「部落」というだけで、何の根拠もないにもかかわらず、ただ「昔から」「血筋」「血統」を理由に続けられてきた。出口のない絶望に自ら命を絶った人間は数え切れない。

某県を訪ねたとき、部落解放運動に関わってきた人から、あの集落は「部落」ではないけれど、ハンセン病の集落、「癩筋」と呼ばれて、差別されていると教えられた。実際にハンセン病患者がいたのかと聞いたが、それはわからないが、昔から「癩筋」の家系が多い集落のため、婚姻はもちろん日常生活でも避けられていた、との話であった。
さらに、実は情けないことだが、我々の祖先はあの集落を名指して、まだましだと見下して我が身を慰めていた事実を話してくれた。悲しいことだと、差別が生み出す愚かさを語ってくれた。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。