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光田健輔論(47) 変革か呪縛か(2)

なぜ「第2世代」の犀川一夫氏らは光田健輔ら「第1世代」が推進した絶対隔離政策を批判することができなかったのだろうか。

光田は、プロミンによる治療が著しい効果を上げたにもかかわらず、彼自身もその画期的な効果を認めつつも隔離政策を決してやめようとはしなかった。さらに国会での「三園長証言」ではより厳しい隔離政策を求めた。三園長など「第1世代」の旧態依然の、しかも国際的動向に逆行する絶対隔離に対して、なぜ彼らは批判できなかったのだろうか。

私はその原因を次のように考える。
1つは、プロミンの実証的効果に確証をもつまでに至っていなかったからである。犀川氏は繰り返し「ある薬剤がハンセン病に効くかどうかは十年経過を見ないとわからない」という光田の口癖を書いているように、当時はまだプロミンの効果をもってしても、光田の絶対隔離の考えを批判することはできなかったのではないだろうか。
2つは、国策として法的にも確立された絶対隔離体制の強固さであった。「第2世代」がプロミンの効果を実感し、ハンセン病を「可治」の病と認識したとしても、療養所への隔離治療から在宅治療あるいは外来治療に転換することを求めるだけの強い発言力がなかった。
3つは、すべての元凶である光田健輔の権威・権力の強大さと、その<呪縛>である。「恩師」である光田に心酔し敬慕していた犀川にとって、師を批判することは難しかったのだろう。

犀川一夫氏の『門は開かれて』(1989年)、『ハンセン病医療ひとすじ』(1996年)には光田健輔との思い出とともに光田の患者に対する献身についても言及されている。見方によれば光田を擁護していると誤解されかねないほどである。事実、国賠訴訟での証人尋問では、その記述を持ち出して証言を覆そうと国側がしている。

私自身も、この1953年8月にらい予防法が改正された時点では、外来治療の可能性を考えていませんでした。当時、私の関心事は、プロミンでハンセン病を治療することが可能になったことにより、もっと多くの患者を療養所に入所させ、プロミンによって治療し、その治癒した患者をどんどん社会復帰させることにありました。私が外来治療の可能性に目を開かれたのは、この1953年11月のインドのラクノー会議に出席してからのことです。

犀川一夫「証人調書③」

犀川氏は正直な人物である。ハンセン病に取り組んできた半生を振り返り、気づかなかったこと、誤っていたこと、素直な心情で自己批判を語っている。


ここに、光田健輔と犀川一夫氏が同じような経験を書いている。この逸話から2人の相違がはっきりと見えてくる。

新潟県の某所の官吏を務めた或るお父さんが尋常五年の娘さんを伴れて診察に来られた。この娘さんは真に綺麗な愛らしい子で、ただ左の手を隠している。お父さんの申さるるには、左の手の小指が曲って感じがない。時々膊に火傷をすることがあるので数人の医者に見て貰ったが、東京の大学に行けと勧められました。大学では癩ではないかという擬診であった。実は国を出る時にこの子の母のいうには、数人の医者が診断をつけず、大学の皮膚科に行けというのに癩ではないであろうか、若しそうであったら、この子可哀想であるけれども、この子の下に三人の弟妹がある。それに感染するといけない、今の中に治療すれば、この子も治らぬこともないであろう。この子を伴れて帰らず東京の病院に預けて下さいということである。そこで私が見たところ、左の手の神経が真に癩の診断を与える程大きくなって居た。私は思わず涙が出た。私はお気の毒であるといったらお父さんは男泣きに泣かれた。そしていわれるのには、私の妻は無情にも涙をも出さずにこの子を病院に置いて来いといったが、貴下はこの子に涙を流された。私の妻の無情を恨むものである。私はこの子を伴れて帰りたいといわれた。然し賢明なるその子の母のいわれたことは至極尤なことであるので、その子と父を伴れて慰廃園に入園をお願いしたところ、快く引受て下された。その子は真におとなしい、理発な子であったので他の患者達から可愛がられて数年の後病気が重って天国に行ったとこ事である。
然しその弟妹は健全に成長することが出来たことは、その賢明なるお母さんの賜物といわなければならない。

光田健輔「癩問題に関する婦人の責務」『光田健輔と日本のらい予防事業』

この光田の一文は昭和10年に書かれたもので、この逸話は「30年程前」のことであるというから、1905(明治38)年頃であろう。
この逸話に対して、成田稔氏は次のように書いている。

…エピソードの中で、光田は誰のために涙を流したのだろうか。たぶん<理知的な母性愛>のある母親でも、また気の毒な思いの父親にでもなく、癩の故に両親や弟妹と離別させられる女の子に対してだろう。ここで普通なら何とか家に置けないものかと思案し、それは困難とわかってはじめて哀れむはずだが、光田は癩と診断すると同時に、別離という苛酷な宿命への同情の涙を流したに違いない。そしてこの同情すらも恐らく、数年の後に病気を重くして一人寂しく亡くなったと知らされたとき、おかげで弟妹は健全に成長できたという思いでかき消しただろう。
…光田が、隔離されるかわいい女の子を前に流した涙は、思いやりではなく単なる同情の類だったろう。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

強制的な隔離収容による別離と悲哀の逸話は枚挙に暇がない。それでも光田は絶対隔離を強引に推進し続けた。同情の涙は流しても良心の呵責は光田には皆無だったのかもしれない。

…この患者さんはお蔵の片隅に潜んでおりまして、…お蔵の片隅に押し込められていた、当時20歳の娘さんですが、大変ひどい症状を呈しておりました。私はお蔵にまいりまして、療養所に入りなさいと、…いろいろ話して、治るようになるんなら、帰れるんなら、あなた入らないかということで結局入ることになりまして、治療をいたしました。見事にこんなにきれいになりまして、あと、うちに帰って、プロミゾールでも与えて、そして家庭で後の再発防止の治療をさせることも考えたんですが、とにかくそういう方法は残っているからと言うんですが、やはり弟に嫁がきたから、私が今更帰るわけにはいかないということで、帰らず、現在でも愛生園におります。先年今から5,6年前に…私は40年振りで会いまして、彼女に謝りました。私は「あなたを生涯このような療養所に入れてしまって大変申し訳ない」、彼女は「いえ、先生、何をおっしゃる、私も、母もあのとき先生が蔵を訪ねてくださったことに対して大変感謝をしているし、今はこんなに立派になって、よくなって、そして一時帰省はしております。弟にはほかの場所で会っております。母はもう亡くなりました」ということで、彼女が私が愛生園に呼んで治療したことについて、感謝の言葉を述べてくれたので、私は、今許されているということでおりますが、当時としましては大変なショックでありまして、私はハンセン病の医師として一体なにをしているのだろうか、人間を、生涯を隔離の社会に閉じ込めてしまうために、私は一生懸命働いたんじやないかというようなことで、ハンセン病の医師としての生き方に大きな反省をいたしたケースでありますが、私としましては、なぜあのときにもっと早くプロミゾールという内服薬を彼女に届けなかったのか、この写真のように一年半もすれば愛生園で治療するのも、お蔵の中で治療するのも同じことであります。…なぜプロミゾールを届けるということを考えなかったのかということが、非常にざんきに耐えないのでありまして、当時私どもは療養所で働いているということは、あの隔離の社会で働くことが当然にように、患者さんというのはこういう施設に入るものだという前提のもとで働き、前提のもとで治療していたような気がいたします。これは、私、非常に残念なことだと思っておりますが、それ以来、私は絶対に施設に患者さんを入れるということに対して非常な反省を覚えているわけであります。

犀川一夫「証人調書③」

プロミンが発明される以前と以後、つまりハンセン病が「不治の病」であった以前と以後の相違に、2人の患者への対応の違いを求め、「時代的正当性」を主張することは論外である。なぜなら、この時の光田は<絶対隔離>を唯一絶対の方法と確信しており、犀川氏がこの女性を愛生園に入所させたときに光田はまだ長島愛生園にいたのだ。

この逸話は『ハンセン病医療ひとすじ』にも「医師の怠慢」と題して書かれている。光田は「園長診察」で入所時に彼女を診察し、「気の毒に、人目を避けて隠れていたんだね、こんなに病気が酷くなるまで、病者をほうっておくのは、君、われわれ医師の怠慢だよ」と、「私どもをたしなめられ、流れる涙をぬぐわれていた」と、犀川氏は紹介している。当時の愛生園の医局では新入園患者があると「園長診察」と称し、医師全員が集まって園長の診察が行われていた。
光田が先の「女の子」に流した涙もこの女性患者に流した涙も、犀川氏ら医師をたしなめた「医師の怠慢」の言葉も、同情でしかない。

光田の「救癩」とは、患者が社会において差別と偏見によって浮浪するか「蔵に押し込められる」という状態から療養所に「隔離」して、「大家族主義」の新たな社会で暮らすことであった。社会から患者を守ると同時に、患者の「病毒」から社会を守ることが光田の「大義」であった。

犀川一夫氏は患者を救うとは「治療」であり、病気を治して社会に復帰させることであった。「隔離」することではない。社会から患者を隔絶することではなく、他の病気と同じように社会の中で患者を治すことであった。そのための「外来診療」である。

犀川氏は、光田や後任の高島重孝園長と「外来治療」について議論を繰り返したと他の著書の中でも書いている。

…最終的にはやはり患者さんを社会人に復帰させるということがハンセン病の医者としての使命であると私なりに感じておりましたが、海外に出まして、こういう形で日本では外来治療がまだなかなかできないということを感じまして、大変苦しみまして、いろいろな方に相談をしたり、いろいろしましたが、その間1953年から60年のあいだ、そういういろいろな努力を続けました。もちろん当時の光田園長は1957年に退官されましたが、光田園長をはじめ後任の高島園長にも是非長島愛生園に外来治療所を設置してほしいと、…。岡山の出張所に簡単な外来診療をするところを、そこで薬を渡すと、治った患者さんもそこへ来て、そして薬を受け診察を受け、再発を防止するというようなこと、新しい患者さんは療養所まで行かなくても、岡山市で薬がもらえ、医者の診察を受けれるというようなことをしてほしいということを申し上げましたけれども、現在のらい予防法のあるかぎりそういうことは難しいということがありまして…私は外来治療の道を求めてまいるために断腸の思いを持って1500人の患者さんと決別して長島愛生園を辞めました。

犀川一夫「証人調書③」

光田(高島かもしれないが)の詭弁がここにある。「らい予防法のあるかぎりそういうことは難しい」と犀川氏の提言(外来診療)を拒んでいるが、「らい予防法」を制定させた(「癩予防法の改悪」)のは光田らである。「三園長証言」で何を訴えたのかを考えれば、外来診療など彼らには眼中になかったことは明白である。

犀川氏は厚生省にも「外来診療制度」の設置を要望している。

1960年のことでありますが、もう海外のハンセン病の対策は外来治療にだんだん固まりつつあったときでありますが、…厚生省ではらい予防法を改正した後のことでありますので、今更また改正するということは難しいと、外来治療はできないということで、私はせめても療養所に外来治療の所を付設してほしいということを申し上げましたけれども、聞き入れていただくことができませんでした。…個人的にも友人でしたが、その技官の方が、先生、厚生省の政策は、結局は患者さんを療養所に全部収容して、そして言葉は悪いんですが、これは東局長が昭和23年に申された言葉ですからあえて流用いたしますが、「患者さんが療養所で死に絶えるのを待つというような政策があるのだから、先生は海外に出てWHOで働きなさい」ということを私にアドバイスをしてくれましたが、そういうことで厚生省としては、…なかなか法律を改正して外来治療をするというほうに踏み切っていただけなかったというのがその当時の実情であります。

犀川一夫「証人調書③」

それでも犀川氏は逃げたのだと私は思ってしまう。光田ら「第1世代」や厚生省の「壁」がどれほど高くとも、絶対隔離政策に疑問をもつ医師たちと力を合わせて立ち向かってほしかった。療養所においても立ち上がった患者たちが「全癩患協」(後の全患協)を結成して自治会運動を活発化させていったのだから。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。