なぜ「第2世代」の犀川一夫氏らは光田健輔ら「第1世代」が推進した絶対隔離政策を批判することができなかったのだろうか。
光田は、プロミンによる治療が著しい効果を上げたにもかかわらず、彼自身もその画期的な効果を認めつつも隔離政策を決してやめようとはしなかった。さらに国会での「三園長証言」ではより厳しい隔離政策を求めた。三園長など「第1世代」の旧態依然の、しかも国際的動向に逆行する絶対隔離に対して、なぜ彼らは批判できなかったのだろうか。
私はその原因を次のように考える。
1つは、プロミンの実証的効果に確証をもつまでに至っていなかったからである。犀川氏は繰り返し「ある薬剤がハンセン病に効くかどうかは十年経過を見ないとわからない」という光田の口癖を書いているように、当時はまだプロミンの効果をもってしても、光田の絶対隔離の考えを批判することはできなかったのではないだろうか。
2つは、国策として法的にも確立された絶対隔離体制の強固さであった。「第2世代」がプロミンの効果を実感し、ハンセン病を「可治」の病と認識したとしても、療養所への隔離治療から在宅治療あるいは外来治療に転換することを求めるだけの強い発言力がなかった。
3つは、すべての元凶である光田健輔の権威・権力の強大さと、その<呪縛>である。「恩師」である光田に心酔し敬慕していた犀川にとって、師を批判することは難しかったのだろう。
犀川一夫氏の『門は開かれて』(1989年)、『ハンセン病医療ひとすじ』(1996年)には光田健輔との思い出とともに光田の患者に対する献身についても言及されている。見方によれば光田を擁護していると誤解されかねないほどである。事実、国賠訴訟での証人尋問では、その記述を持ち出して証言を覆そうと国側がしている。
犀川氏は正直な人物である。ハンセン病に取り組んできた半生を振り返り、気づかなかったこと、誤っていたこと、素直な心情で自己批判を語っている。
ここに、光田健輔と犀川一夫氏が同じような経験を書いている。この逸話から2人の相違がはっきりと見えてくる。
この光田の一文は昭和10年に書かれたもので、この逸話は「30年程前」のことであるというから、1905(明治38)年頃であろう。
この逸話に対して、成田稔氏は次のように書いている。
強制的な隔離収容による別離と悲哀の逸話は枚挙に暇がない。それでも光田は絶対隔離を強引に推進し続けた。同情の涙は流しても良心の呵責は光田には皆無だったのかもしれない。
プロミンが発明される以前と以後、つまりハンセン病が「不治の病」であった以前と以後の相違に、2人の患者への対応の違いを求め、「時代的正当性」を主張することは論外である。なぜなら、この時の光田は<絶対隔離>を唯一絶対の方法と確信しており、犀川氏がこの女性を愛生園に入所させたときに光田はまだ長島愛生園にいたのだ。
この逸話は『ハンセン病医療ひとすじ』にも「医師の怠慢」と題して書かれている。光田は「園長診察」で入所時に彼女を診察し、「気の毒に、人目を避けて隠れていたんだね、こんなに病気が酷くなるまで、病者をほうっておくのは、君、われわれ医師の怠慢だよ」と、「私どもをたしなめられ、流れる涙をぬぐわれていた」と、犀川氏は紹介している。当時の愛生園の医局では新入園患者があると「園長診察」と称し、医師全員が集まって園長の診察が行われていた。
光田が先の「女の子」に流した涙もこの女性患者に流した涙も、犀川氏ら医師をたしなめた「医師の怠慢」の言葉も、同情でしかない。
光田の「救癩」とは、患者が社会において差別と偏見によって浮浪するか「蔵に押し込められる」という状態から療養所に「隔離」して、「大家族主義」の新たな社会で暮らすことであった。社会から患者を守ると同時に、患者の「病毒」から社会を守ることが光田の「大義」であった。
犀川一夫氏は患者を救うとは「治療」であり、病気を治して社会に復帰させることであった。「隔離」することではない。社会から患者を隔絶することではなく、他の病気と同じように社会の中で患者を治すことであった。そのための「外来診療」である。
犀川氏は、光田や後任の高島重孝園長と「外来治療」について議論を繰り返したと他の著書の中でも書いている。
光田(高島かもしれないが)の詭弁がここにある。「らい予防法のあるかぎりそういうことは難しい」と犀川氏の提言(外来診療)を拒んでいるが、「らい予防法」を制定させた(「癩予防法の改悪」)のは光田らである。「三園長証言」で何を訴えたのかを考えれば、外来診療など彼らには眼中になかったことは明白である。
犀川氏は厚生省にも「外来診療制度」の設置を要望している。
それでも犀川氏は逃げたのだと私は思ってしまう。光田ら「第1世代」や厚生省の「壁」がどれほど高くとも、絶対隔離政策に疑問をもつ医師たちと力を合わせて立ち向かってほしかった。療養所においても立ち上がった患者たちが「全癩患協」(後の全患協)を結成して自治会運動を活発化させていったのだから。