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光田健輔論(25) 浄化と殲滅(6)

あらためて先達による先行研究から「ハンセン病史」を詳しく検証していくなかで、ハンセン病問題が内包する<差別の本質>と<差別の連鎖>を考えるに至っている。

…感染力が弱いのに強制収容され、治療法があるのに終身隔離されたひとが「かわいそうだ」という論理を採用したくない。その論理の裏側には感染力が強く、治療法がない病気の患者は強制収容、終身隔離されてもしかたがないという論理が貼りついているからだ。ひとを隔離施設に収容するにいたる条件は、感染力の多寡、治療法の有無といった尺度だけでつきるものではなく、もっと慎重な議論が必要なはずだ。

武田徹『「隔離」という病い』

当然すぎることでありながら、この論理から思考する人間は少ない。日本MTLなど宗教的な「救らい思想」、「優生思想」、国際的な体面、公衆衛生など、ハンセン病に向き合った人達が掲げた<理由>や<目的>には、武田氏が指摘する「論理」が潜んでいる。それらは「絶対隔離」によって社会から絶縁した療養所を患者にとっての「楽土」と信じ込むことで自己正当化を図る論理であった。この論理は当事者に「患者のため」という<免罪符>を与える一方で、社会一般には自分には関わりのないことであるという<忘却>の機能を果たす。

事実を知らされれば、なるほどだれでも「かわいそうだ」と思う。ひどい法律だったと批判もする。しかし、そんな反応をする人が、ハンセン病隔離は、隔離医療という近代医学がごく日常的に採用している方法の一適用例であり、その意味で自分達の生活の地平に属するものなのだという認識を持っているとは僕には思えなかった。だから、感情の高まりが消えてゆくにつれて、問題も遠く感じられるようになり、やがて忘れてしまう。
…排除し、隔離し、忘れてしまうという三段ロケット式思考は、今なお健在であり、しかも誰も悪気があって排除、隔離、忘却を行っているわけではないというところが深刻なのだ。

武田徹『「隔離」という病い』

この武田氏の指摘は、何もハンセン病問題だけではなく、他の多くの人権問題や社会問題にもあてはまる人間の思考様式である。武田氏は「忘却とは正直な能力である。自然に振る舞っているうち自覚的になったり、意識的になったりできないことを人は忘れる。忘れてしまったことは、存在しないも同然なのだから、それを非難したところで、『暖簾に腕押し』に近いものとなろう」と述べているが、同じことが繰り返される要因は「忘却」と「無関心」であり、「傲慢」と「頑迷」である。


「本妙寺事件」について検証してみたい。

聖公会の伝道師(宣教師)として来日したハンナ・リデルが、熊本市郊外の立田山麓にハンセン病患者を救済するために「回春病院」を開設したのは1895年である。その直接の原因は、1889年に来日した翌年、熊本で伝道活動を開始した彼女が、本妙寺の参道で物乞いをする多くのハンセン病患者を見て衝撃を受けたことに始まる。1923年からは、姪のエダ・ライトも手伝うようになり、1932年にリデルが死去した後は、彼女が引き継いだ。回春病院は、1941年に、日英関係の悪化による経済的理由などにより閉鎖された。

1905(明治38)年11月、リデルが上京し、病院経営への援助を大隈重信と渋沢栄一に要請したことが、日本におけるハンセン病対策の契機となったのは間違いないだろう。

渋沢は銀行倶楽部で回春病院への援助について会合を開き、これには内務省衛生局長窪田静太郎、東京養育院医官光田健輔、衆議院議員山根正次・島田三郎、それに田川大吉郎ら各新聞社の代表など総勢25,6名が集まり、ハンナ・リデルが当時、日英同盟を結んでいたイギリスのしかも女性であることで、各新聞社も好意的に報道した。
…こうして回春病院への支援体制はつくられたが、この会合では、それだけにとどまらず、ハンセン病患者の隔離の必要が叫ばれ、政府側からもそのための法案提出の意向が示されている。さらに、ハンセン病がきわめて恐ろしい感染症であることも強調されている。

藤野豊『「いのち」の近代史』

リデルの訴えは国を動かしたが、その国が頼ったのが光田健輔であることが歴史の悲劇であったと、今更ながらに思う。さまざまな要因とさまざまな思惑が、まるで歯車のように、光田を中心に回り始めた。その後、光田は実際に熊本を訪れ、本妙寺集落に足を運んでいる。このことが「本妙寺事件」と関係していると私は思っている。

リデルが見た衝撃の光景を、藤野豊氏の著書より引用する。

この時のことをリデルは、1902(明治35)年12月6日、大日本婦人衛生会で講演している。そこで、リデルは次のように述べている。

この寺の下の平かな桜の並木を通りこして、進んで寺に登ります処には、沢山の石段がございますが、此処にも同じく石段の両側に、一段に一人づゝと申しますほど大勢の癩病人が恤みを乞ひ仏を祈ってゐまして、甚しきは極く稚さい小供が母親の手に懐かれて居る。其の小供も大概は癩病或いは其他の目も当てられぬ皮膚病の為に、恐ろしい有様になって居ります。其の稚ない小供も親に教えられて、小さい痛ましい手を出し往来の人に恤みを乞ふて居ります。…(中略)…左手に別の建物がございまして、此処には太鼓の前に十八歳ばかりの若い癩病人が、目も当てられぬ姿で狂気の如くに、太鼓の音につれて頭をうちふりながら祈って居りますが、軈て逆上して、気絶して仆れて仕舞ふと申すやうな有様でございます。

そして、この衝撃から、リデルは「私は此癩病人の身躰と精神の苦しみを救う為に、何か応文の事をいたしまして、日本国民の精血を絞って居ると申しても宜しい此難病の為に、どうか治療の方法でも得られる事なら、如何なる労苦も厭ふまじと決心いたしました」と、回春病院開設に向かった事情を語っている。

藤野豊『「いのち」の近代史』

この約30年後、全生病院の職員であった毛涯鴻が「本妙寺集落」について、『癩患者ノ浮浪状態』(1931年)のなかで、次のように紹介している。藤野豊氏の前掲書より引用する。

九州熊本市ハ本妙寺ノ所在地ダケアッテ往時ヨリ多数ノ癩患者ガ居住徘徊シテ居ル。花園町ニ住ム患者ハ正確ナル数ハ知リ得ナイガ数十名或ハ百名ノ者ガ住ンデ居ル。…(中略)…此所ハ花園長屋ト称セラレテ居ル。今一ヶ所ハ中尾ノ内中尾丸(俗ニ朝日サシノ裏)デアッテ…(中略)…其ノ他牧崎等十二ヶ所ニ少数ノ者ガ居ル。此ノ地ノ患者ハ例ノ「ケコミ」ト称スル不逞ノ徒ガ居住シテ市内ハ勿論近県ヲ荒シ廻ッテ地方農民ヲ戦慄セシメテ居ル。

藤野豊『「いのち」の近代史』

また、同じ頃に調査に入った癩予防協会の熊本市西部方面委員の十時三郎の報告をもとに癩予防協会がまとめた『本妙寺癩部落解消の詳報資料・四』(1941年)には、次のように記述されている。これも藤野氏の前掲書より引用する。

従来この部落は社会的落伍者、前科者、不具者、癩患者等に依って形成された特殊部落であるので白昼何等憚るところなく賭博を為し、飲酒しては喧嘩に論する等全く荒み切った人間の集合場所として一般市民は勿論のこと警察官さへ巡回の足を入れること殆どなき別世界だった事実は十時方面委員が昭和九年の七月から八月にかけてこの部落を調査された際唯一度も警察官の姿を見たことが無いと言って居られるのでも解る。兎も角治外法権ででもあるかの如き観を呈してゐる部落内に一歩足を踏み入れやうものなら異様な風態をした連中に睨まれ取巻かれ、まかり違へば喧嘩を吹きかけられると言ふ始末だったので十時方面委員が断固として調査の手を染められたに就いてはその熱意と勇気の前に万腔の敬意を払らはねばならぬと思ふ。

藤野豊『「いのち」の近代史』

藤野氏も指摘しているが、毛涯も十時もハンセン病に関わる職員でありながら患者を「不逞ノ徒」とみなしたり、本妙寺集落を「社会的落伍者、前科者、不具者、癩患者等に依って形成された特殊部落」であり、「白昼何等憚るところなく賭博を為し、飲酒しては喧嘩に論する等全く荒み切った人間の集合場所」と認識している。
江戸時代に端を発する都市下層社会や明治期の資本主義が生み出した「スラム」は、全国各地に散在していた。その顕著なものが「被差別部落」であった。藤野氏は本妙寺集落を差別的呼称である「特殊部落」と表記していることについて、次のように述べている。

本妙寺は、近世の賤民集落に起源を持つ被差別部落とは異なるのに、癩予防協会がなぜ、この語を使用したのであろうか。
ここに、私は「特殊部落」の比喩的使用の例を見いだす。すなわち、被差別部落の意味で「特殊部落」の語が使用されたのではなく、被差別部落に対する「貧困」とか、「犯罪者の巣窟」といった予断と偏見に満ちた固定観念が「特殊部落」の語に凝縮され、そうした観念にもとづいて、ここでこの語が使用されたと考える。ハンセン病患者が集まり、社会一般とは異なる異様な「貧困」や「犯罪者の巣窟」と化した集落、そのようなイメージがこの語に象徴されているのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

1934年の十時の報告によれば、本妙寺の総所帯数は149戸、人口は480人であ、そのうちでハンセン病患者の世帯数は35戸、人口は男58人、女54人であった。患者の職業は日雇、物貰、行商、貸家業、托鉢坊主、遍路、大工などと記録されている。

この本妙寺集落が警察によって強制的に解体されたのは、1940(昭和15)年7月9日であった。ハンセン病の専門医として本妙寺集落の解消に関わった宮崎松記について、藤野氏は次のように嘆いている。

その様子について、厚生省予防局長高野六郎宛ての九州療養所長宮崎松記の七月二四日付報告は次のように伝える。

七月九日午前五時ヲ期シ熊本県警察部長総指揮ノ下ニ県関係官、熊本南北両警察署及九州療養所職員総数二百二十名ヲ以テ本妙寺癩部落ヲ一斉ニ強襲シテ寝込ヲ襲ヒ水モ洩サヌ検挙ヲ行ヒ身柄ハ一応「トラック」ニテ順次九州療養所ニ運ビ構内ニ在ル警察留置所及当所監禁室ニ収容シ、斯クテ翌々十一日迄検挙ヲ続行残存患者ヲ悉ク掃蕩シ合計百五十七名ヲ一網打尽ニ検挙シテ剰ス処ナカリシハ洵ニ近来ノ快事トシテ慶幸ノ至リニ堪ヘズ。
ここで、宮崎は「強襲」「検挙」「掃蕩」「一網打尽」などの表現を用いている。あたかも本妙寺の集落のハンセン病患者はすべて犯罪者であるかのような文面である。しかも、表現のみならず、彼らは、警察の留置所にも収容されている。…
また、宮崎は高野宛ての七月二六日付の私信において、次のように述べている。

男六五、女五三、未感児二八、非癩一一、計一五七名を狩込みトラック及び患者用輸送自動車にて九州療養所に運び男は警察留置所女は監禁室に夫々分割収容致し申し候、…(中略)…兎角最高八十二歳の老人から最低生まれ立ての赤ん坊までの百鬼夜行の老若男女百五十名余を一時に留置したる光景は見物にて御座候。

九州療養所長である宮崎松記にとり、ハンセン病患者の姿は「百鬼夜行」であり、その留置の光景は「見物」でしかなかった。このような患者への侮蔑と差別の意識に塗れた人物が、ハンセン病医療の責任者であったという事実にあらためて悲しみを覚える。

藤野豊『「いのち」の近代史』

熊本県ホームページに「熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書」が掲載されている。熊本県における戦前から戦後にかけての「無らい県運動」および「現代におけるハンセン病問題の課題」などについて詳細に検証している。「本妙寺事件」についても、その歴史的背景など詳しく述べているので、参照してもらいたい。

https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49738.pdf

私の問題意識は、「本妙寺事件」に関与した十時英三郞や宮崎松記らが本妙寺集落に居住するハンセン病患者に対して、どのような認識を持っていたかを明らかにすることである。それは、当時そのような世論を形成した光田健輔や内務省衛生局の官僚、日本MTL、癩予防協会の思想教化を明らかにすることでもある。なぜなら、「民族浄化」の大義名分のもとで差別や偏見すらが肯定され、人権蹂躙の行為が「正義」として正当化された、その「目的のためには手段を選ばない」思想こそが、<差別の連鎖>として現在も底流を流れ続けているからである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。