見出し画像

光田健輔論(43) 不治か完治か(3)

ここ数年、入所者への「解剖承諾書」が問題となっている。入所の条件であったという証言も、意に反して強制的に有無も言わせず署名させられたという証言も数多くある。私自身も幾人もの入所者から直接に話を聞いた。最近の新聞記事を2つ転載する。

国立ハンセン病療養所・長島愛生園(瀬戸内市)で、入所者の遺体を解剖する前に本人から得たとされる同意書が、医師によって偽造されていた可能性があることが22日、園への取材で分かった。園が一部を抽出して調査した結果、27%に死後の日付が記入されていたという。本人の意思や人権を無視した解剖が行われていた懸念がある。
ハンセン病療養所入所者の遺体解剖を巡っては、国の「ハンセン病問題に関する検証会議」が2005年の報告書で「患者を研究対象物として扱い、遺体解剖はルーティン化していた」と指摘している。解剖は主に昭和初期に行われ、本人か親族による承諾が義務づけられていた。
同園には開園翌年の1931年から56年までに亡くなった1834人の解剖記録が残されており、園が32、33年と45~48年の計140人の同意書「剖検願」を照合したところ、38件が死後の日付となっていた。死亡当日は29件、亡くなる前日から7日前は59件、8日以前は14件だった。
(『山陽新聞デジタル版』2024年4月25日付)

国立ハンセン病療養所・邑久光明園(岡山県瀬戸内市)で入所者1千人分を超す解剖記録が見つかった問題で、弁護士らで構成する人権擁護委員会は24日、検証報告書を発表した。全員の解剖と臓器保存が施設の方針だったとの関係者の証言を踏まえ、「重大な人権侵害」と結論づけた。
同園では前身施設の時代を含めた1938~98年、亡くなった入所者1674人のうち1184人が解剖され、1123人分の解剖記録が残っている。2020年に近藤剛弁護士を委員長とする人権擁護委員会がワーキンググループを作って調査を始め、入所者本人や家族の同意の有無、医療の研究に貢献したかなどを調べてきた。
報告書によると、同園での解剖率は71%。解剖の同意に関しては、入所者本人や遺族が作成したとみられる文書は170通ほどしか残っていなかった。法的に規定された「遺族」ではなく、入所者の「友人」が同意したとみられる文書もあった。
入所者への聞き取り調査では、入所時に解剖の承諾書に押印したとの証言や、1975年ごろまで解剖は強制的だったとの認識が示された。臨床検査技師の証言からは、全員の解剖と臓器保存が施設の方針であり、患者のためになると考えられていた状況が明かされた。
報告書は、ハンセン病の病態は50年までにほぼ解明されており、死者全員の解剖については「医学的な必要性を失っていた」と指摘。園の対応は「従来の方針に妄執してしまった」と断じた。
その上で、「入所者は人生全般を療養所の支配下に置かれていたことから、自由意思に基づく正当な同意を得ていたとみなすことはできない」と強調。「隔離政策下で行われた重大な人権侵害」と結論づけた。
(『朝日新聞デジタル』2022年11月25日付)

「報告書」は「国立療養所邑久光明園における病理解剖の検証報告書」として、厚生労働省および邑久光明園のHPに掲載されているので読むことができる。

数十年前になるが、長島愛生園で見た光景は今も忘れることができない。故中井栄一園長に案内された一室の棚やロッカーの中には、ホルマリン漬けのガラス容器が雑然と並んでいた。解剖によって摘出された手足や臓器、胎児の標本であった。その生々しさに言葉を失った。

<医学・医療の進歩のため>という美名を鵜呑みにしていたが、深くも考えず、結局は「他人事」として見ていたのだ。ある入所者は、「俺の切り落とされた足がガラス瓶の中に入っているのを見たとき、怒りと悲しみが込み上げて涙が止まらなかった」と話してくれた。国賠訴訟の裁判で証言に立った元患者は強制堕胎によって殺された我が子のことを訴えた。その凄惨な証言を読むだけで心が痛くなる。人は他者に対して、どうしてこのような仕打ちが平然とできるのだろうか。

光田健輔は82歳まで長島愛生園で園長として働いたが、退官後に愛生園を訪ね、当時の患者代表である執行委員たちを前にこう言ったそうである。「謝罪しなければならないことがふたつあります。ひとつは家族の了解がないのに、死亡解剖したこと」。光田が働いたころの医療状況は今のような画像器や内視鏡があるわけではもちろんなく、解剖によってのみ病状が判明することが多かった。元来、光田は病理に深い関心があり、生涯に立ち会った解剖は4000例にものぼると言われている。

徳永進「隔離の中の医療」『ハンセン病』

ここでも「時代的正当性」が顔を出す。そして「あの頃は…仕方がなかった」と自他に向けての責任回避の言い訳が述べられる。光田の「謝罪」は何を意味するのだろうか。「死亡解剖」はハンセン病医学のために必要だったと、だから「家族の了解」を無視したと正当化するのだろうか。

解剖して標本とした患者の手足がどれだけ活用されたのだろうか。ホルマリン漬けの胎児標本がどれほど活かされたのだろうか。私の記憶の中では、濁ったホルマリン溶液に浮かぶ肉体や肉片、まるで胎内の羊水に浮かんでいるかのような目を閉じて丸まった胎児だった。ホルマリン溶液の入替作業をさせられたという看護婦の証言もあるが、標本を使って研究をしたという医師の証言は、寡聞にして知らない。解剖を趣味と豪語する光田の至上命令を、後の医師は単に「解剖」から「標本作製」という作業を踏襲していただけのような気がする。

『ハンセン病講義』の第9章「当事者の証言:ハンセン病差別の中で生きて」(杉野桂子)に、次の証言がある。

私は母が死んだ後に福祉課に頼んで「解剖願書」というのをコピーしてもらいました。そしてそれを見たとき本当にびっくりしました。その日付は…「昭和二十六年八月二日付」となっています。妹は八月三日の朝早く死んだんですね。危篤の娘を前にして母が本当に署名したんだろうか、拇印を押したんだろうかっていうふうにその時は信じられませんでした。手元にあるのでちょっと読んでみますけれども、「解剖願私儀 御収容後有り難御治療相受け居り候処萬一死亡の際は医術研究の一助とも相成る申し可くに付解剖相成度生前此段願い奉り候也」。そして日付と母の名前と拇印が押してありました。
私たちはずっと…「解剖承諾書」と思っていたんですね。園の方から亡くなったときには医学の進歩のために解剖をさせてくださいってお願いされて、そして承諾する解剖承諾書と思っていたんですけれど、「解剖願書」となっていて、本当にびっくりしました。

杉浦桂子「当事者の証言:ハンセン病差別の中で生きて」『ハンセン病講義』

私も「解剖承諾書」と思い込んでいたが、「解剖願書」とは呆れ果てる。しかも文書として作成していて署名と捺印をするだけの既存文書であるとは、この文章を作成した人間は何を思っていたのだろうか。なぜ「解剖承諾書」ではなく「解剖願書」なのか。わかりきったことであるが、法的責任をより回避するために他ならない。ハンセン病患者を「人間」として見ていない、扱っていない証左である。

光田健輔の『愛生園日記』に「深夜の解剖」という一文がある。光田が東京市養育院の医官を務めていた頃、「解剖」を始めた思い出が書いてある。同じ逸話が『回春病室』の「叱られた話」にも書いてある。よほどに記憶に残っているのだろう。

…死体はすべて大学に運んでしまうので、院内での解剖は許されなった。…しかし私はライの研究が進むにしたがって、ここで解剖をやってみなければならないことを痛感した。せっかくのこの死体に手もふれず、みすみす大学へ渡してしまうことが残念でたまらなかった。
…あるとき、ひとりの老女が激しく腹痛を訴えるので、胆石と診断したが、一晩中もがき苦しんで翌日あっけなく死亡した。…その原因をどうしても自分の手で確かめてみたくて、とうとう禁制を破って解剖をやってしまった。それ以来、少し大胆になって、ときどき解剖をやっていたが、あるときそれを患者にみつけられて大騒ぎになった。患者は人権を無視するものだといって、渋沢院長に抗議する。院長も私のしたことに立腹したらしく、さっそく大学の浜尾総長に強談判をした。…総長も、そんな無謀なやつは即刻免職にしよう――ということになって、入沢博士にそのことを申し渡した。
ところが入沢博士は、総長のように簡単には私の免職を承知しなかった。養育院のような不潔な所へは、大学の医員はだれでも行くのをいやがるが、それでもなお希望者があるのは「研究資料」が多いから行くのだ。禁を破って解剖したのは悪いが、それも研究に熱心なあまりやったことで、こんな熱心な学徒を免職しては、今後いい医者は行きたがらなくなる――という意見であった。…結局今後は院内で解剖をやらないという始末書を一札入れて、私の首はつながることになった。さすがに当分は慎んでいたが、その我慢も長くは続かなかった。人の寝静まるのを待って、またひそかに解剖をやった。…

光田健輔『愛生園日記』

この一文からも、光田にとって死体は「研究資料」でしかなく、患者が訴えるような「人権」意識は皆無であったことがわかる。

光田は自著『回春病室』に、東京大学の解剖教室の廊下にたくさん陳列している「解剖標本」を暇さえあれば「のぞき込んだり、スケッチしたりする」と書いている。病理学研究者としての熱心さは認めるが、やはり度を超えた頑迷さである。<目的のためには手段を選ばない>光田の強情さと自己中心の性情がよく表れている。

以後、光田は副医長になり院内に解剖室が作られて公然とできるようになるが、全生病院そして長島愛生園へと転勤しても「解剖」と「標本作製」は続いていく。光田は弟子や部下の医官にも「解剖」と「標本作製」は命じていただろうし、彼らも光田の指導には従ったであろう。その結果、いつまでも「解剖」は受け継がれ、形式だけの「標本作製」が続けられたのだろう。
桜井方策編『救癩の父 光田健輔の思い出』の最初に、光田の直弟子の医学者であった桜井方策による光田の評伝がある。その中に「二十七 解剖三千体」と題した一文を抜粋・転載しておく。

全生園でも愛生園でも、患者が死亡した場合は解剖することが鉄則になっていた。これを行うのは園長の生き甲斐のように見えた。解剖室には死亡者の生前の病歴、経過等の詳細な記録がある。執刀の主役は園長で、園長不在の時は全生では林主席医員、愛生では富田医務部長が代った。受持ち医員や他の医員が列席し、一人は助手に一人は記録をとり、試験室の人たちが助手を勤めることもあった。若い看護婦たちにもなるべく見学させて解剖学の実習をさせた。よその病院ではなかなかできないことであった。いうまでもなく園長の熟練した手さばきはみごとなものであった。そうして解剖した数は3000体に達した。
解剖した内臓々器は一部ずつ取っておくのが恒例であったが、ほかにも末梢神経幹も取って、後日これを顕微鏡の組織標本にした。

桜井方策編『救癩の父 光田健輔の思い出』

誰が「鉄則」にしたのか、解剖を「生き甲斐に」していた光田である。病理学者として研究熱心と評する人間もいる。桜井は、次のように書いている。

愛生園は病理の名門と言われてきた。全生園のころは林芳信、愛生園に移って林文雄、田尻敢らがこれを継いだ。これも光田園長あってのことである。「光田文献集」はこれら数々の業績を記録しているが、やがて国際的に認められ、「アトラス・オブ・レプロシイ」の名著となったのである。

桜井方策編『救癩の父 光田健輔の思い出』

光田健輔は、病理学者としては「光田反応」など業績を残したかもしれないが、その犠牲となった多くの患者に対して「家族の承諾なしに解剖したことを謝罪」しても、今更としか思えない。形式的な謝罪としか私には思えない。功名心によって患者や入所者の「人権」を蔑ろにした事実は決して許されるものではない。


長島愛生園には、1931年から56年までの1834人分の「解剖記録」が残されている。入所者の約8割である。邑久光明園には、1938年から98年までの1184人分の記録がある。入所者の約7割であり、800体以上の「臓器標本」が保存されていた。
ハンセン病の治療法が確立された1950年代以降、ハンセン病の病態はほぼ解明されていたにもかかわらず「解剖」は全国の療養所で続けられていた。「解剖」の医学的根拠はない。
そして、「剖検願」(解剖願書)は患者が死亡する約1週間前の日付がほとんどであり、医師である証人の筆跡と同じであった。患者が亡くなる直前の病床で「剖検願」を書いたとは思えない。まして自殺した患者が書くことなどありえない。署名の代筆、日付の改竄、偽造が行われていたと考えるべきだろう。

患者の人権を無視してまで「解剖」する必要性はあったのだろうか。ハンセン病が「不治」であった時代、確かに医学的根拠はあっただろう。例えば、ほとんど効果がなかったといわれた唯一の治療薬「大風子油」の結果を判断するのは「解剖」でしかわからなかった。光田はプロミンの効果にしても、ライ菌の消滅は「解剖」でしか判断できないと公言していた。しかも、いかなる特効薬でも10年を経過しなければ効力を認めることはできないとも。

だが、ハンセン病医学の発展のためであろうとも、患者本人や家族の承諾を得ずして、まるで「実験材料」のように、平然と「解剖」を行っている医師の良心とは何だったのだろうか。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。