ここ数年、入所者への「解剖承諾書」が問題となっている。入所の条件であったという証言も、意に反して強制的に有無も言わせず署名させられたという証言も数多くある。私自身も幾人もの入所者から直接に話を聞いた。最近の新聞記事を2つ転載する。
「報告書」は「国立療養所邑久光明園における病理解剖の検証報告書」として、厚生労働省および邑久光明園のHPに掲載されているので読むことができる。
数十年前になるが、長島愛生園で見た光景は今も忘れることができない。故中井栄一園長に案内された一室の棚やロッカーの中には、ホルマリン漬けのガラス容器が雑然と並んでいた。解剖によって摘出された手足や臓器、胎児の標本であった。その生々しさに言葉を失った。
<医学・医療の進歩のため>という美名を鵜呑みにしていたが、深くも考えず、結局は「他人事」として見ていたのだ。ある入所者は、「俺の切り落とされた足がガラス瓶の中に入っているのを見たとき、怒りと悲しみが込み上げて涙が止まらなかった」と話してくれた。国賠訴訟の裁判で証言に立った元患者は強制堕胎によって殺された我が子のことを訴えた。その凄惨な証言を読むだけで心が痛くなる。人は他者に対して、どうしてこのような仕打ちが平然とできるのだろうか。
ここでも「時代的正当性」が顔を出す。そして「あの頃は…仕方がなかった」と自他に向けての責任回避の言い訳が述べられる。光田の「謝罪」は何を意味するのだろうか。「死亡解剖」はハンセン病医学のために必要だったと、だから「家族の了解」を無視したと正当化するのだろうか。
解剖して標本とした患者の手足がどれだけ活用されたのだろうか。ホルマリン漬けの胎児標本がどれほど活かされたのだろうか。私の記憶の中では、濁ったホルマリン溶液に浮かぶ肉体や肉片、まるで胎内の羊水に浮かんでいるかのような目を閉じて丸まった胎児だった。ホルマリン溶液の入替作業をさせられたという看護婦の証言もあるが、標本を使って研究をしたという医師の証言は、寡聞にして知らない。解剖を趣味と豪語する光田の至上命令を、後の医師は単に「解剖」から「標本作製」という作業を踏襲していただけのような気がする。
『ハンセン病講義』の第9章「当事者の証言:ハンセン病差別の中で生きて」(杉野桂子)に、次の証言がある。
私も「解剖承諾書」と思い込んでいたが、「解剖願書」とは呆れ果てる。しかも文書として作成していて署名と捺印をするだけの既存文書であるとは、この文章を作成した人間は何を思っていたのだろうか。なぜ「解剖承諾書」ではなく「解剖願書」なのか。わかりきったことであるが、法的責任をより回避するために他ならない。ハンセン病患者を「人間」として見ていない、扱っていない証左である。
光田健輔の『愛生園日記』に「深夜の解剖」という一文がある。光田が東京市養育院の医官を務めていた頃、「解剖」を始めた思い出が書いてある。同じ逸話が『回春病室』の「叱られた話」にも書いてある。よほどに記憶に残っているのだろう。
この一文からも、光田にとって死体は「研究資料」でしかなく、患者が訴えるような「人権」意識は皆無であったことがわかる。
光田は自著『回春病室』に、東京大学の解剖教室の廊下にたくさん陳列している「解剖標本」を暇さえあれば「のぞき込んだり、スケッチしたりする」と書いている。病理学研究者としての熱心さは認めるが、やはり度を超えた頑迷さである。<目的のためには手段を選ばない>光田の強情さと自己中心の性情がよく表れている。
以後、光田は副医長になり院内に解剖室が作られて公然とできるようになるが、全生病院そして長島愛生園へと転勤しても「解剖」と「標本作製」は続いていく。光田は弟子や部下の医官にも「解剖」と「標本作製」は命じていただろうし、彼らも光田の指導には従ったであろう。その結果、いつまでも「解剖」は受け継がれ、形式だけの「標本作製」が続けられたのだろう。
桜井方策編『救癩の父 光田健輔の思い出』の最初に、光田の直弟子の医学者であった桜井方策による光田の評伝がある。その中に「二十七 解剖三千体」と題した一文を抜粋・転載しておく。
誰が「鉄則」にしたのか、解剖を「生き甲斐に」していた光田である。病理学者として研究熱心と評する人間もいる。桜井は、次のように書いている。
光田健輔は、病理学者としては「光田反応」など業績を残したかもしれないが、その犠牲となった多くの患者に対して「家族の承諾なしに解剖したことを謝罪」しても、今更としか思えない。形式的な謝罪としか私には思えない。功名心によって患者や入所者の「人権」を蔑ろにした事実は決して許されるものではない。
長島愛生園には、1931年から56年までの1834人分の「解剖記録」が残されている。入所者の約8割である。邑久光明園には、1938年から98年までの1184人分の記録がある。入所者の約7割であり、800体以上の「臓器標本」が保存されていた。
ハンセン病の治療法が確立された1950年代以降、ハンセン病の病態はほぼ解明されていたにもかかわらず「解剖」は全国の療養所で続けられていた。「解剖」の医学的根拠はない。
そして、「剖検願」(解剖願書)は患者が死亡する約1週間前の日付がほとんどであり、医師である証人の筆跡と同じであった。患者が亡くなる直前の病床で「剖検願」を書いたとは思えない。まして自殺した患者が書くことなどありえない。署名の代筆、日付の改竄、偽造が行われていたと考えるべきだろう。
患者の人権を無視してまで「解剖」する必要性はあったのだろうか。ハンセン病が「不治」であった時代、確かに医学的根拠はあっただろう。例えば、ほとんど効果がなかったといわれた唯一の治療薬「大風子油」の結果を判断するのは「解剖」でしかわからなかった。光田はプロミンの効果にしても、ライ菌の消滅は「解剖」でしか判断できないと公言していた。しかも、いかなる特効薬でも10年を経過しなければ効力を認めることはできないとも。
だが、ハンセン病医学の発展のためであろうとも、患者本人や家族の承諾を得ずして、まるで「実験材料」のように、平然と「解剖」を行っている医師の良心とは何だったのだろうか。