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光田健輔論(16) 建て前と本音(1)

近藤祐昭氏の『ハンセン病隔離政策は何だったのか』と題した論文は、光田健輔を擁護する立場からのハンセン病患者を保護するためには「隔離政策」は致し方なかったことであり、従来の光田に対する批判は光田の「建て前と本音」を見誤っているとの論旨である。果たしてそうであろうか、私には光田の人格や人間性と彼が突き進んだ「絶対隔離」への道は別物であり、どれほど優しく暖かい人柄であろうと彼が行った「断種や堕胎」、あるいは「特別病室」の建設と残虐な監禁は到底許せるものではない。

近藤氏の論文を検証していくことで、近来の「隔離政策」を正当化しようとする論調や光田健輔を擁護する論説の欺瞞について明らかにしておきたい。

近藤氏の論説をまとめると、次のようになる。

当時の政府が「ハンセン病の伝染力が弱いこと」を知りながら「隔離する法律」を作るためには「強力な伝染病だと言わざるを得なかった」のは、德田や藤野が言うような「政府がハンセン病患者の存在を国辱として、外国人から見えないように隔離しようとした」からではない。
「光田健輔や窪田静太郎などは、患者の救済と医療そして感染予防の必要性を強く受け止めて国策の樹立に向かった」のであり、「光田は感染予防を強調することによって隔離の強化と拡大を政府に求めていった」のである。

富国強兵を目指す政府、福祉は共同体的相互扶助にゆだねている政府が、1万人を超えるハンセン病患者の療養所の設立とその運営費を、国費で賄うということはとても考えられないことであった。そうした状況の中で、感染予防のための隔離の必要性を強調することによって、患者の自己負担のない国費による療養所の設立と運営を光田は求めていった。「感染する怖い病気」ということを医療を越えた形で強調し、国費による療養所の必要性を主張していった。
光田はそれが患者の医療と生活を守り、患者の家族の生活を守り、国民への感染を防ぐ最良の方法と受けとめていったのだと思う。ただそのことは、患者と家族を引き裂き患者の自由を奪っていく極めて苛酷なことでもあった。

要するに、当時の政府は軍備増強を優先していたので、ハンセン病対策に予算をまわす考えも余裕もなかった。路上で物乞いをする患者には「医療と共に生活の場が必要である」が、お金のない浮浪癩者を救済するには「国費による療養所」が必要であった。そのために、あえて「強力な伝染力」があると「ハンセン病の恐ろしい」を強調したのである。これが近藤氏の考察である。

「德田や藤野は、隔離政策には患者の医療と生活を守るといった面は全く無かったとするのだろうか」と近藤氏は批判しているが、両者ともそんなことを言ってはいない。両者は当時の国家、政府の見方が「国辱」「隠蔽」であると歴史的背景から考察しているのであって、自説を正当化しようとする近藤氏の曲解でしかない。

<目的のために手段を正当化してはならない>とは私の信念であるが、近藤氏は「救癩」のためには「隔離」という手段が当時は「最良の方法」であったと正当化する。その「手段」によって、近藤氏も認めるように、「極めて苛酷なこと」「ハンセン病への差別や偏見を強めていったこと」が生じた<歴史的事実>を仕方がなかったで済ますことはできないのである。
近藤氏は大学にて「同和教育」を教えてきたし、今も僧侶として部落問題などに深く関わっているのだろうが、差別や偏見を生み出す要因となった光田健輔の考えや「絶対隔離」を容認するのだろうか。

国家に対しては「伝染」を強調し、完治しないことを強調し、国費による隔離施設の必要性を主張し、他方で実際に伝染の恐れのない患者、退園して生活していくことが可能な患者の退園を認めていったであろう。

近藤氏は、光田健輔の<本音と建て前>の使い分けを根拠に、彼の<真意>は「絶対隔離」ではなかったと擁護する。つまり、国家や国民には「国費による隔離施設」を造らせるために<建て前>として「伝染力」を強調せざるを得なく、<本音>は患者の「医療と生活」を守るためであったと、それゆえ犀川氏の「光田先生は非常に幅の広い」「大きな器の先生」「ハンセン病者を生涯を通じて誰よりも心から愛し続けられた方である」という発言を根拠に擁護している。
そして犀川氏の発言を「ハンセン病隔離政策が時代社会の抱えている大きな制約の中で矛盾する多様な面を抱えながら生み出され運用されて来た」と理解して、光田が<本音>を抑えて、国費の運用を得るために<建て前>を発言したのだととらえる。

光田の<本音>がそうであったとしても、たとえ<建て前>であったとしても、矛盾や葛藤があったとしても、光田の行った<手段>を正当化できるものではない。
近藤氏は、光田の人格や人間性と彼の行った政策や言動を混同している。どれほど患者を「心から愛し続け」ても、権威をもった権力者として患者に向き合い、自分の考えや方策を強行していったり、患者よって大きく異なる対応をしたりしたことは別である。

近藤氏が光田擁護の根拠としている犀川一夫氏の発言を検証してみる。
近藤氏は犀川氏を光田健輔の愛弟子であり、1944年から1960年まで愛生園に勤務した外科医であるから、誰よりも光田健輔のことをよく知っているとして、彼の証言から光田の人柄と熱意、そして「軽快対処」を実施していたという証言から、「絶対隔離」は光田の<建て前>であると擁護している。

だが、近藤氏も引用している『証人調書③犀川一夫証言』には、犀川氏による光田健輔の「絶対隔離」政策に対する厳しい批判が述べられている。証言そのものを読めば一目瞭然であるが、長い引用になるので、西日本弁護団の小林洋二氏がまとめている「犀川証言調書を読む」より抜粋して引用する。

犀川先生は自分が入所を勧めた患者さんのスライドを見ながら、「なぜ自分は彼女の自宅にプロミゾールを届けなかったのか」「自分は当時隔離社会で働くことが当然のように考えていた、患者さんはこういう施設にはいるものだという前提で働いていた」「私の誤りです」と涙ながらに証言されました。
「私はハンセン病の医者として一体なにをしているのだろうか、人間を生涯隔離の社会に閉じ込めてしまうために、私は一生懸命働いたんじやないか」
この自己批判が、その後の犀川先生の人生の方向を決定し、そして今回の証言に至った原点なのだろうと私は思います。

国側代理人は、(いわゆる「三園長証言」に関して)犀川先生の著書(『ハンセン病医療ひとすじ』)を示しながら「光田先生は、強制収容を伝家の宝刀的なものとして残そうとしていたのではないか。あなたは光田証言をそう評価しているのではないか」と問います。つまり国側としては「らい予防法」において強制収容はあくまでも例外的な処置であり、勧奨に基づく自発的な入所が原則であるという方向に話を持っていきたいわけです。
これに対して犀川先生は「私は『それはおかしい』と書いていませんか。『光田先生の考え方は私には理解できない』と書いてあるはずです」と答えています。

犀川氏は「1953年にラクノー会議に出席して外来治療に目を開かれて以来」「日本の隔離政策の中で働くことの矛盾に苦しみ、療養所の上司や厚生省に対し、日本でも療養所などに外来診療所を設置すべきことを度々提言し」たが、受け入れられず「1960年に愛生園を辞め、台湾で外来治療によるハンセン病対策に従事するように」なった。だからこそ、著書においても本証言においても、「絶対隔離」に対して痛烈な批判を行っている。

近藤氏は、犀川証言の中から光田健輔の患者に対する優しさと愛情、ハンセン病対策への熱意などを抜き取り、また「軽快退園」の実態を根拠にして、絶対隔離が<建て前>であり、<本音>は「軽快退園」であり、それを許可していた光田の姿が<実態(真相)>であると擁護する。まるで「絶対隔離」は<建て前>であって、<実態(真相)>は「軽快退園」が園長の裁量で行われていたのだから、「絶対隔離」ではなかったとでも言いたいように思える。

国側の主張では、患者は退所しようと思えば退所できたはずだと、退所できなかったのは、患者が勝手に療養所にいることを選んだんだという趣旨の主張をしているわけですけれども、こういった意見についてはどのようにお考えですか。
それはありません。私の知る限り、あのケースのように、帰りたくても帰れない、それが三年、四年というふうに長くなればなるほど帰れない。大体施設に入るということは、ある程度家族と別れて、別れない人もおるんですけrども、家族と別れ、子供と別れて入る、学問をしている人は学校を中退して入る、職業を持っている人は職業を捨ててはいるんですから、三年、四年して復職するということもまずできません。また学校に入るということもできません。帰ろうにも、家族が破壊されているということもありましょう。そういうことを考えますと、私は施設に入れるということが、先ほど申しましたように、ハンセン病の患者さんをスポイルすることで、ハンセン病自体が患者をスポイルしているのではないという私は結論に達します。

この犀川氏の証言からも、犀川氏が「絶対隔離」であろうと、「軽快退園」が行われていたとしても、「強制収容」あるいは「収容して隔離すること」自体が問題であると考えていることは明白である。
近藤氏は犀川氏の証言(「先生はずいぶん誤解を受けられた方であった」「光田先生は非常に幅の広い」「大きな器の先生」)を引き合いに出して、「単なる光田弁護論ではなく、ハンセン病隔離政策が時代社会の抱えている大きな制約の中で矛盾する多様な面を抱えながら生み出され運用されて来たということを述べているように私には思える」と述べているが、犀川氏は光田健輔の人間像を評しているのであって、「ハンセン病隔離政策」における光田の考えや方法論について評してはいない。
また、犀川氏の「(光田は)ハンセン病者を生涯を通じて誰よりも心から愛し続けられた」という証言を引き合いに、藤野氏の「絶対隔離を推進した光田にとり、患者の人権など眼中になかった」という批判を「藤野にはこうした犀川の発言は、まったく理解できないものであり、矛盾した弁護論としか受けとめられなかったのだ」と断定して批判する。
患者を「心から愛し続け」ることと「絶対隔離」を推進し「断種・堕胎」を平然と行うことは決して矛盾するものではない。光田は患者のためには最善の方法だと思い込んで「断種・堕胎」を行っているのだ。だから、「三園長証言」後に長島愛生園で患者に追及されたときに、平然と「好意」で行っていると弁明しているのだ。光田の自伝的な回想録にも患者の人権に対して否定的な文章が散見する。それでも近藤氏は、光田は患者の人権を大切にしていたと擁護するのか。

「当時の政府の最高責任者が、『ハンセン病の伝染力が弱いことはよく承知していたが、隔離する法律を作るためには、強力な伝染病だと言わざるを得なかった」と述懐しています」という德田氏の引用を、近藤氏は本論文中に繰り返し使って、光田健輔の<建て前>と<本音>を弁護しているが、絶対隔離や強制収容についても「無理の一つであった」として許されるのだろうか。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。