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光田健輔論(28) 浄化と殲滅(9)

前回に続けて、「本妙寺事件」に関連して「塩谷総一郎と光田健輔の関わり」について、熊本県ホームページに掲載されている「熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書」より抜粋・転載しながら検証する。

https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49299.pdf

「報告書」の「第一章 5.本妙寺事件」に、塩谷に関して次のような逸話が書かれている。

…潮谷はさらに栗生楽泉園を訪問し相愛更生会の会員たちと面会。「ともに祈りをささげ涙を流した」と同年11月1日付の日本MTLの機関紙に記している。面会したのは9月下旬とあり9月11日の解放を確認したものと思われる。潮谷の遺族によると潮谷は同年12月、陸軍に召集される際、118人のハンセン病患者の名簿を持参。戦地では毎日、この名簿を手に患者の幸せを祈ったという。本妙寺事件で収容された157人から健常者と子供の数を引くと118人になり、この名簿は本妙寺集落の患者を記したものと推測される。

潮谷が本妙寺集落より強制収容された患者を気にかけて全国の療養所を訪ねたことからも彼の人情深さと律儀さを感じる。深く交流した患者たちの行く末を案じていたのだろう。ただ「相愛更生会」の役員たちが栗生楽泉園の「特別病室」に収監されることは知らなかったのではないだろうか。そして、実際に山深い栗生楽泉園にあって、さらに奥深い一画に設置された「特別病室」の建物、まさに「牢獄」を目の当たりにして、潮谷は何を思っただろう。もしかしたら「面会」の時だけは外に出されていたのかも知れない。
彼は自分が作成した本妙寺集落の詳細な地図や家族状況、患者であるかないか等々を書き記した報告書が使われたこと、それがあったからこそ「一斉検挙」が可能になったことを後悔したのではないだろうか。それゆえの戦地に赴く際に持参した「名簿」なのではないだろうか。

「相愛更生会」会長であった中村理登治の自宅で毎週土曜日にキリスト教の伝道集会を開き、集落内に宗教画を配ったというほど親密な関係となり、信頼されていた潮谷は、群馬県草津湯之沢集落のような「自由療養地」の開設計画を相談され、関係者に取り次いだ。回春病院のライトと思われる外国人は支援の意を示したが、九州療養所の宮崎松記所長は「本妙寺周辺を住み心地よい場所にしてもらっては、せっかくの隔離療養、伝染予防の趣旨が壊れてしまう」と強く反対されたという。このことから、潮谷がどこまで光田らの絶対隔離政策に賛同していたか疑問に思う。だが、潮谷が光田健輔の影響を強く受けていたことも確かである。

「熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書」の執筆者は、次のように書いている。

潮谷については、九州療養所から厚生省に宛てた本妙寺事件功労者表彰推薦状から、潮谷の患者所在調査が収容に利用されたことも分かっている。戦時体制が進む中で行き詰まる相愛更生会活動の状況を見ての強制収容への助力だったと見られるが、戦後、免田事件などでの人権擁護活動で著名な潮谷までが本妙寺事件に関わったことは、社会での患者の居場所をなくす「無らい県運動」の徹底ぶりを浮き彫りにするものだろう。また、方面委員の十時の活動もあわせ社会福祉関係者が、強制収容の推進役となったことは、社会福祉の持つパターナリズム(父権主義)の負の側面を考えさせられる。なお、潮谷は潮谷義子前熊本県知事の義父であり、潮谷前知事が宿泊拒否事件などで菊池恵楓園入所者らの人権回復活動に力を注いだことには歴史の因縁を感じる。

同「報告書」の「第三章 2.熊本県における「無らい県運動」と宗教」に、潮谷についての考察が記述されている。

https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49324.pdf

本項の執筆者は執筆目的を次のように述べている。

ここでは、杉山博昭の『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』(2009年)第三章「熊本におけるキリスト者の行動」の、特に本妙寺事件に関わる記述を手がかりとして、熊本県の「無らい県運動」において、宗教がいかなる役割を果たしたのかの一端を明らかにしたい。

「ハンセン病とキリスト教の関わり」については、先行研究も多く、特に上記の杉山氏の著書や荒井英子氏の『ハンセン病とキリスト教』には多くの示唆を受けた。ここでは、ハンセン病問題に対するキリスト者(組織)の関わりを塩谷総一郎を通して考察してみたい。

平田勝政氏によれば、日本MTLおよび九州MTL設立当時(1920年代)の「歴史的背景」には、二つの流れがあったという。一つは、1923年の第3回万国癩会議で合意された「隔離は人道上の罪である」という考えを背景として、1924年に青木大勇が論文「癩療養所を隔離・監禁本位より治療・研究本位へ」を発表し、「隔離監禁主義から治療解放主義への転換」を提起している流れである。もう一つが、光田健輔の「絶対隔離主義」であり、内務省衛生局とともに国策として推進してきた流れである。

日本MTLは光田健輔の流れに賛同した賀川豊彦の門下の青年達によって設立され、九州MTLも光田の影響下にあった内田守と宮崎松記が設立当初から中心メンバーとして参画し、主導している。その後に加わった塩谷総一郎と江藤安純が「本妙寺(集落)の浄化運動」の中心となって担われていく。

…それに対して、ハンセン病は「遺伝病」ではなく「伝染病」であると伝えることにより、まだ罹患していない家族に「希望」を与えるとともに、さらにその「希望」の実現のためにも、また、これ以上の新規患者の発生を「縮小」させるためにも、患者の隔離が「急務」であると考えたに違いない。ここには、「隔離監禁主義から治療解放主義への転換を提起」した青木大勇ではなく、「絶対隔離による『癩問題』の解決を是」とし、「内務省衛生局(高野六郎ら)ととも国策として強調・推進していた」光田健輔の影響が大きく働いていたと言わざるをえない。
そこで、潮谷は、隔離政策に協力することこそが、家族のためにも将来の国民のためにも良いことだと考えたのであろう。

潮谷はまさしく<善意の人>であり、真摯に弱き人を助けようと行動した人物であると思う。本「報告書」にも、一面で彼の人物評価をしながら、他方で疑問も抱いている。

…潮谷らは、非常に優れた深い信仰の人であったに違いなく、同時代の誰よりも増して「人間の尊厳」、すなわち人権への洞察力を持ちえた人物であったに違いないと思われる。しかし、そう考えるほどに、疑問もまた大きくふくらんでくる。
宗教は、普遍的な側面をその本質とする教えのはずである。しかも、その普遍的な教えとともに、あるいはそれに基づいて、「人権」についての深い洞察力を持ちあわせたはずの人物が、なぜ「強制隔離」「強制収容」の人権侵害を見ぬくことができなかったのだろうか。

同様の疑問を「神谷美恵子」に抱いたのは武田徹氏である。

僕は以前から神谷に対して一つの疑問を感じていた。訳者として近代を排除のシステムとみなすフーコーの考え方に触れていた神谷が、なぜ日本のハンセン病隔離政策に対して批判的な発言をしなかったのだろうか、と。
たとえば神谷は療養所の患者と在野の患者に対する各種精神医学的調査を行い、在野の患者の方が不安に怯え、潜んで暮らす生活に苦しんでいることを報告する。

Rosenzweig絵画-欲求不満テストによって得られた結果によるかぎり、外来患者は愛生園の患者と共有する特徴のほか、さらに大きな抑制と依存の度合を示し、自己主張と自己防衛力が弱く、強い罪障感を持っていて、それをつぐなうべく努めている。この患者たちが健康者の間にあって、自分の病気が見つかりはしないか、と絶えず恐れ、また病気をかくし、施設に入ることを拒絶していることについて罪の意識を持ちつづけていることを考えれば、以上の精神的態度は全くよく理解できる。彼らは愛生園の患者よりもあきらめの傾向が強いのである。
(神谷美恵子「癩に関する精神医学的研究」)

これは光田健輔や小川正子がかつて強制収容を正当化した時に用いた論法を精神医学的に支えるものだ。こうした「在野患者」のあり方に眉を曇らせた後に「生きがい」論で療養所こそ在野の状態から救い出されたひとが生き生きと暮らせる場所、一種のユートピアだと示す。ハンセン病者の隔離は冷酷な排除ではなかった-彼女はそういいたげだ。

武田徹『「隔離」という病い』

私も同様の疑問というか不満を神谷美恵子に対しては持っていた。初めて彼女の『生きがいについて』を勧められて読み、続けて数冊を読んだが、当時はハンセン病問題に関してはほとんど知識を持っていなかったので、彼女の深い洞察と分析、感性豊かな文章に心惹かれた。十数年後、ハンセン病問題に深く関わるようになり、彼女の著作集を再読するにつれて、療養所内の患者作業や断種など苛烈な生活環境に対して何も触れていないことや、光田健輔への盲信的な尊敬のせいなのか、絶対隔離政策への批判が皆無なことに複雑な疑念を抱くようになった。今回、あらためてハンセン病に関して検証するなかで、小川正子や神谷美恵子そして塩谷総一郎などの<善意の思い込み>の弊害を強く感じている。

武田氏が引用している上記の一文を含む「癩に関する精神医学的研究」など、神谷のハンセン病患者の心理分析は的確だと思うが、「外来患者(在野患者)」にそのような感情(「強い罪障感」)を抱かせた「理由(要因)」を神谷はわかっているのだろうか。彼らに「大きな抑制と依存」を強いたり、「罪の意識を持ちつづけ」させたり、「あきらめ」を持たざるを得なくしたしたのは誰かをわかっているのだろうか。
武田氏が言うように、神谷の考察は光田健輔の「絶対隔離政策」を正当化する。光田への盲信が彼女の判断を鈍らせたのかもしれない。

この3人に共通するのはキリスト教的救癩思想である。ハンセン病患者を「救済」することを使命(目的)とする「救癩思想」そのものは尊い。だが、その方法(手段)と「救う者(側)」を絶対的立場に置く考えが、一方的であり独善的であることが問題なのだ。しかも、それは<善意の思い込み>によって遂行されるゆえに偏狭な正当化に陥ってしまう。「救われる者(側)」の<人権>さえも「救う者(側)」に左右されてしまう。「患者のため」「あなたのため」という押しつけの<善意>によって決められてしまう。

キリスト教は元来、心の救済とともに人権の回復をもその視野に入れていたはずである。しかし、近代日本のキリスト教「救癩」史を見る限り、信仰と人権とは乖離し、ヒューマニズムの美名のもとにハンセン病患者の人権は全く顧みられることはなかった。魂の救いと人間の解放の両面をもつキリスト教が、なぜ人権に無感覚に、このような事業を信仰的動機をもって行い得たのか。実にこのような「信仰と人権の二元論」こそ、近代日本キリスト教「救癩」史の根本問題であるといわなければならない。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

荒井氏は、「信仰と人権の二元論」の「根」を、1つは「天皇制とキリスト教の関わり」、特に「天皇による慈恵政策」に求め、もう一つの根を「キリスト教側の『らい病』あるいは『らい病人』観に求める。それはハンセン病者を「人権とは無縁の、憐れみの対象として」の存在としか見なさないことにおいて、「天皇の慈恵政策とキリスト教の『救癩』事業の理念」は「見事に重なり合う」と指摘する。
つまり、ハンセン病患者は、天皇にとってもキリスト教にとっても「憐れむべき存在」でしかないのである。その意味において、ハンセン病患者は「らい病人」であることによって、自分たちと同じ人間としては見なされない。そして「救癩」の<方法(手段)>を、光田健輔の提唱・推進する「絶対隔離政策」が「唯一絶対」と「確信」した以上、無批判に受け入れて盲信・盲従していったのである。

荒井氏の批判の正しさは、次の神谷美恵子の一文からも推察できる。

長島愛生園の園長の職を昭和三十二年に辞任する少し前から、先生が過去において推進したらい患者への強制隔離政策は患者の一部から強く非難されるようになっていた。それは戦後、らいを治す強力な薬が開発され、多くの患者が「無菌」となり、かなりの人が社会復帰できるようになったからであり、それが戦後の人権思想とからみあって、先生の事業への烈しい反発となってあらわれたのであった。…
光田先生に対する右の批判は歴史の流れの中で出るべくして出たのであり、私たちも一生隔離された人びとの悲劇には身近に接してきた。こういう意味で先生の事業が現在、一部の人たちから単純な美談としてうけとられていないゆえんもわかる。

神谷美恵子「序文」『救癩の父 光田健輔の思い出』

一読して神谷の無責任な正当化、まるで他人事のような素っ気なさに、彼女にとってハンセン病患者は「憐れみの対象」であり、「慰めてあげる人たち」でしかなく、さらに言えば「研究の対象」でしかなかったのだと思う。
「一生隔離」した責任の一端は神谷にもあるのだが、彼女はそれを「悲劇」と「身近に接してきた」だけである。「一生隔離」される「悲劇」の主人公を「かわいそう」と同情して慰めるだけである。

プロミンが登場するまでは「一生隔離」も仕方がないことであるとの認識だが、それ以後においても光田はさらに激しく「絶対隔離政策」を主張し続けている。国会での「三園長証言」を神谷はどう受けとめたのだろうか。「歴史の流れの中」に責任転嫁するのは、あまりに無責任と思う。

しかし何と言っても歴史的人物は、その時代と社会を背景にして眺められなくてはならない。現代において光田先生の考えかたやしごとがどう見えようとも、先生の時代においてあれだけのしごとにあえて一生を賭けたことは、並外れた勇気と愛と根気の要ることであった。たとえそれが自由とひきかえであったとしても、多くの浮浪患者が困窮のどん底から救われたことは否定すべくもない。この精神の輝きは歴史を超えて伝達されるべき日本の宝物であると信じる。

神谷美恵子「序文」『救癩の父 光田健輔の思い出』

神谷の欺瞞である。光田健輔および彼に追随した絶対隔離論者を正当化する詭弁の論理である。この詭弁の論理は今なお残り続けている。本論考で批判した幾人かも同様の論理をもとに光田擁護論を展開している。
私は、光田健輔や宮崎松記ら絶対隔離論者や彼らを支援した高野六郎などの官僚、日本MTLさらに塩谷総一郎や江藤安純ら九州MTLの諸氏が果たしたハンセン病対策すべてを否定するものではないし、彼らの人間(人物)像を評価しないものでもない。むしろ彼らの救癩に賭ける情熱や人一倍の尽力には敬服する。神谷の光田健輔に対する人物評価も納得する。

しかし、彼らの人物評価と彼らの政策評価は分けて考えなければならない。神谷は「その時代と社会」の責任に転嫁したうえで、光田の人間像を持ち出して、彼の絶対隔離政策を肯定あるいは正当化しようとする。
神谷自身が「たとえ自由とひきかえであったとしても」と自己正当化の伏線を敷いている。「自由とひきかえ」とは「一生隔離」を納得しているという意味だろうが、なぜ<条件>を付ける必要があるのか、それは光田の「絶対隔離」を肯定するためである。「困窮のどん底」にいた「浮浪患者」にとっては確かに「救い」だろうし、「自由」を失ってもよいとさえ思っただろう。だが、「多くの浮浪患者」ではあっても、すべての患者がそうではなかったはずだ。この論理で「強制収容」「強制隔離」「一生隔離」を正当化できる、光田健輔を擁護するのは欺瞞である。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。