光田健輔論(28) 浄化と殲滅(9)
前回に続けて、「本妙寺事件」に関連して「塩谷総一郎と光田健輔の関わり」について、熊本県ホームページに掲載されている「熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書」より抜粋・転載しながら検証する。
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49299.pdf
「報告書」の「第一章 5.本妙寺事件」に、塩谷に関して次のような逸話が書かれている。
潮谷が本妙寺集落より強制収容された患者を気にかけて全国の療養所を訪ねたことからも彼の人情深さと律儀さを感じる。深く交流した患者たちの行く末を案じていたのだろう。ただ「相愛更生会」の役員たちが栗生楽泉園の「特別病室」に収監されることは知らなかったのではないだろうか。そして、実際に山深い栗生楽泉園にあって、さらに奥深い一画に設置された「特別病室」の建物、まさに「牢獄」を目の当たりにして、潮谷は何を思っただろう。もしかしたら「面会」の時だけは外に出されていたのかも知れない。
彼は自分が作成した本妙寺集落の詳細な地図や家族状況、患者であるかないか等々を書き記した報告書が使われたこと、それがあったからこそ「一斉検挙」が可能になったことを後悔したのではないだろうか。それゆえの戦地に赴く際に持参した「名簿」なのではないだろうか。
「相愛更生会」会長であった中村理登治の自宅で毎週土曜日にキリスト教の伝道集会を開き、集落内に宗教画を配ったというほど親密な関係となり、信頼されていた潮谷は、群馬県草津湯之沢集落のような「自由療養地」の開設計画を相談され、関係者に取り次いだ。回春病院のライトと思われる外国人は支援の意を示したが、九州療養所の宮崎松記所長は「本妙寺周辺を住み心地よい場所にしてもらっては、せっかくの隔離療養、伝染予防の趣旨が壊れてしまう」と強く反対されたという。このことから、潮谷がどこまで光田らの絶対隔離政策に賛同していたか疑問に思う。だが、潮谷が光田健輔の影響を強く受けていたことも確かである。
「熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書」の執筆者は、次のように書いている。
同「報告書」の「第三章 2.熊本県における「無らい県運動」と宗教」に、潮谷についての考察が記述されている。
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49324.pdf
本項の執筆者は執筆目的を次のように述べている。
ここでは、杉山博昭の『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』(2009年)第三章「熊本におけるキリスト者の行動」の、特に本妙寺事件に関わる記述を手がかりとして、熊本県の「無らい県運動」において、宗教がいかなる役割を果たしたのかの一端を明らかにしたい。
「ハンセン病とキリスト教の関わり」については、先行研究も多く、特に上記の杉山氏の著書や荒井英子氏の『ハンセン病とキリスト教』には多くの示唆を受けた。ここでは、ハンセン病問題に対するキリスト者(組織)の関わりを塩谷総一郎を通して考察してみたい。
平田勝政氏によれば、日本MTLおよび九州MTL設立当時(1920年代)の「歴史的背景」には、二つの流れがあったという。一つは、1923年の第3回万国癩会議で合意された「隔離は人道上の罪である」という考えを背景として、1924年に青木大勇が論文「癩療養所を隔離・監禁本位より治療・研究本位へ」を発表し、「隔離監禁主義から治療解放主義への転換」を提起している流れである。もう一つが、光田健輔の「絶対隔離主義」であり、内務省衛生局とともに国策として推進してきた流れである。
日本MTLは光田健輔の流れに賛同した賀川豊彦の門下の青年達によって設立され、九州MTLも光田の影響下にあった内田守と宮崎松記が設立当初から中心メンバーとして参画し、主導している。その後に加わった塩谷総一郎と江藤安純が「本妙寺(集落)の浄化運動」の中心となって担われていく。
潮谷はまさしく<善意の人>であり、真摯に弱き人を助けようと行動した人物であると思う。本「報告書」にも、一面で彼の人物評価をしながら、他方で疑問も抱いている。
同様の疑問を「神谷美恵子」に抱いたのは武田徹氏である。
私も同様の疑問というか不満を神谷美恵子に対しては持っていた。初めて彼女の『生きがいについて』を勧められて読み、続けて数冊を読んだが、当時はハンセン病問題に関してはほとんど知識を持っていなかったので、彼女の深い洞察と分析、感性豊かな文章に心惹かれた。十数年後、ハンセン病問題に深く関わるようになり、彼女の著作集を再読するにつれて、療養所内の患者作業や断種など苛烈な生活環境に対して何も触れていないことや、光田健輔への盲信的な尊敬のせいなのか、絶対隔離政策への批判が皆無なことに複雑な疑念を抱くようになった。今回、あらためてハンセン病に関して検証するなかで、小川正子や神谷美恵子そして塩谷総一郎などの<善意の思い込み>の弊害を強く感じている。
武田氏が引用している上記の一文を含む「癩に関する精神医学的研究」など、神谷のハンセン病患者の心理分析は的確だと思うが、「外来患者(在野患者)」にそのような感情(「強い罪障感」)を抱かせた「理由(要因)」を神谷はわかっているのだろうか。彼らに「大きな抑制と依存」を強いたり、「罪の意識を持ちつづけ」させたり、「あきらめ」を持たざるを得なくしたしたのは誰かをわかっているのだろうか。
武田氏が言うように、神谷の考察は光田健輔の「絶対隔離政策」を正当化する。光田への盲信が彼女の判断を鈍らせたのかもしれない。
この3人に共通するのはキリスト教的救癩思想である。ハンセン病患者を「救済」することを使命(目的)とする「救癩思想」そのものは尊い。だが、その方法(手段)と「救う者(側)」を絶対的立場に置く考えが、一方的であり独善的であることが問題なのだ。しかも、それは<善意の思い込み>によって遂行されるゆえに偏狭な正当化に陥ってしまう。「救われる者(側)」の<人権>さえも「救う者(側)」に左右されてしまう。「患者のため」「あなたのため」という押しつけの<善意>によって決められてしまう。
荒井氏は、「信仰と人権の二元論」の「根」を、1つは「天皇制とキリスト教の関わり」、特に「天皇による慈恵政策」に求め、もう一つの根を「キリスト教側の『らい病』あるいは『らい病人』観に求める。それはハンセン病者を「人権とは無縁の、憐れみの対象として」の存在としか見なさないことにおいて、「天皇の慈恵政策とキリスト教の『救癩』事業の理念」は「見事に重なり合う」と指摘する。
つまり、ハンセン病患者は、天皇にとってもキリスト教にとっても「憐れむべき存在」でしかないのである。その意味において、ハンセン病患者は「らい病人」であることによって、自分たちと同じ人間としては見なされない。そして「救癩」の<方法(手段)>を、光田健輔の提唱・推進する「絶対隔離政策」が「唯一絶対」と「確信」した以上、無批判に受け入れて盲信・盲従していったのである。
荒井氏の批判の正しさは、次の神谷美恵子の一文からも推察できる。
一読して神谷の無責任な正当化、まるで他人事のような素っ気なさに、彼女にとってハンセン病患者は「憐れみの対象」であり、「慰めてあげる人たち」でしかなく、さらに言えば「研究の対象」でしかなかったのだと思う。
「一生隔離」した責任の一端は神谷にもあるのだが、彼女はそれを「悲劇」と「身近に接してきた」だけである。「一生隔離」される「悲劇」の主人公を「かわいそう」と同情して慰めるだけである。
プロミンが登場するまでは「一生隔離」も仕方がないことであるとの認識だが、それ以後においても光田はさらに激しく「絶対隔離政策」を主張し続けている。国会での「三園長証言」を神谷はどう受けとめたのだろうか。「歴史の流れの中」に責任転嫁するのは、あまりに無責任と思う。
神谷の欺瞞である。光田健輔および彼に追随した絶対隔離論者を正当化する詭弁の論理である。この詭弁の論理は今なお残り続けている。本論考で批判した幾人かも同様の論理をもとに光田擁護論を展開している。
私は、光田健輔や宮崎松記ら絶対隔離論者や彼らを支援した高野六郎などの官僚、日本MTLさらに塩谷総一郎や江藤安純ら九州MTLの諸氏が果たしたハンセン病対策すべてを否定するものではないし、彼らの人間(人物)像を評価しないものでもない。むしろ彼らの救癩に賭ける情熱や人一倍の尽力には敬服する。神谷の光田健輔に対する人物評価も納得する。
しかし、彼らの人物評価と彼らの政策評価は分けて考えなければならない。神谷は「その時代と社会」の責任に転嫁したうえで、光田の人間像を持ち出して、彼の絶対隔離政策を肯定あるいは正当化しようとする。
神谷自身が「たとえ自由とひきかえであったとしても」と自己正当化の伏線を敷いている。「自由とひきかえ」とは「一生隔離」を納得しているという意味だろうが、なぜ<条件>を付ける必要があるのか、それは光田の「絶対隔離」を肯定するためである。「困窮のどん底」にいた「浮浪患者」にとっては確かに「救い」だろうし、「自由」を失ってもよいとさえ思っただろう。だが、「多くの浮浪患者」ではあっても、すべての患者がそうではなかったはずだ。この論理で「強制収容」「強制隔離」「一生隔離」を正当化できる、光田健輔を擁護するのは欺瞞である。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。