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光田健輔論(29) 浄化と殲滅(10)

1932(昭和7)年12月、国立ハンセン病療養所として長島愛生園に続いて2番目に群馬県草津町に、草津温泉の湯之沢地区にあった「癩村」の人々を収容する目的で栗生楽泉園が開設された。

草津温泉は皮膚病に効果があるということから、温泉場の一画湯之沢地区に多くのハンセン病患者が集まり、集落をつくり、1887(明治20)年には、湯之沢地区は草津の温泉街の上町より分離され、ひとつの区を構成し、町会議員まで出すに至っていた。

…湯之沢地区では、患者が旅館をはじめ種々の生業を営み、通常の家族生活を保っていた。…戸数180戸のうち無職は67戸で、あとは自由労働者52戸、旅館業20戸以下、それぞれ自立自営していたのである。そして、1917(大正6)年、イギリス人宣教師コンウォール・リーにより聖バルナバ医院も開設されていた。湯之沢地区は、いわゆる「浮浪癩」と呼ばれていた患者が集まっていた地区ではない。患者が自立自活しながら治療を続けていた地区である。しかし、絶対隔離の国家の方針は、それをも許容しなかった。

藤野豊『「いのち」の近代史』

湯之沢地区は患者が旅館業を主として「自立自活」して生活しているため、楽泉園への収容はなかなか進まなかった。そのため、楽泉園当局は園内に「自由療養地」を設置して、湯之沢の患者が家屋を移築することや、無料外来診療を認めるという特例まで設けて収容を進めた。結果として1937(昭和12)年までに339名の患者を収容している。だが、実際は湯之沢の患者数はそれほどには減っていない。

その一方では、国勢調査によれば、1930(昭和5)年で803名であった湯之沢の人口は、1935年になっても652名を数え、そのうち、湯之沢に定住する患者は561名を絞めるという状況で、湯之沢の患者数は大きく減少していなかった。すなわち、患者が湯之沢から楽泉園に収容される一方で、全国から新しい患者が湯之沢に流入していたのであり、それは、定住して旅館や商店を経営する患者にとり、営業上においても全国から患者を誘致する必要があったからである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

前回までの「本妙寺事件」(本妙寺集落)との決定的な違いは、湯之沢地区では患者が旅館や商店などを経営し、湯治に訪れる全国からのハンセン病患者を受け入れて生計を立てながら、一つの集落として「自治」を行っていたことである。また、湯之沢を開拓して集落をつくってきた歴史も古い。湯之沢集落(部落)の「前史」については、栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』に詳しい。ここでは、解散(消滅)の経緯について触れておく。(「湯之沢集落の歴史」については別項にて論じてみたい)

1941(昭和16)年4月、日英同盟の悪化にともないイギリスからの援助が途絶えたため、聖バルナバ医院が閉鎖され、その機能は栗生楽泉園に吸収された。これを機に、湯之沢集落の楽泉園への移転が一気に進展した。すでに、3月12日、群馬県当局は湯之沢の区長・区長代理に「移転」について通告、3月13日、10名の湯之沢代表に対して「湯之沢部落民は正式に移転命令ありたる日より1ヶ年以内に栗生楽泉園に入所すべし」以下の「移転条項」を示し、湯之沢の家屋・土地に対する県の買収価格も提示していた。これに対し、湯之沢住民側も九回に及ぶ区民大会を開き、5月7日、県当局との間に「覚書」に合意した。そして「移転」の期限は、1942(昭和7)年12月31日とされ、家屋・土地の買収額も3月の県の提示より大きく引き上げられていた。こうして、1941年5月18日、聖バルナバ教会で「湯之沢部落解散式」が挙行されたのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

上記引用文に続けて藤野氏は、当時の新聞各社の報道や湯之沢の区長の談話を転載して、県当局の「誠意」により移転は「円満解決」であったことを紹介しながら、それは「つくられた『美談』」であって真実ではないと、当時の湯之沢の代表であった田中宏(『風雪の紋』では代表者名は「久造」となっているが、同一人物かは未確認)さんの証言から述べている。

県当局は交渉がまとまる以前に住民の切り崩しをおこない、交渉妥結前に勝手に土地を売った旅館主もいたというのである。…そして、湯之沢「移転」=消滅に反対する住民のもとには、特高(特別高等警察=思想弾圧を専門とする警察)も来て、反対すれば「特別病室」(楽泉園内の事実上の監獄)に入れると脅迫して回ったという。
さらに、「円満解決」を強調する警察部長館林三喜男は、5月18日の「解散式」の際、「我々は諸君の生殺与奪の権を持つが、諸君が我々の意を了としてくれたのはよかった」と発言したため、田中さんは「生殺与奪の権」という発言を取り消せと抗議したそうだ。

藤野豊『「いのち」の近代史』

藤野氏は「たしかに、本妙寺の集落のように、警察官を動員した強制収容とならなかったのは、湯之沢の住民が『移転』=消滅に結果的に同意したからであり、もし最終的に同意しなかったら、やはり本妙寺の場合と同様の結果となっていただろう」と述べている。

私も同感である。「無らい県運動」の大きな壁であった本妙寺集落そして湯之沢地区の解消によって、光田ら絶対隔離主義者の野望は完遂に向かって更に全国規模で加速していくことになる。


では、実際にどのような「切り崩し」があったのか。『風雪の紋』に次のような記述がある。

さて、療養所設立にたいする湯之沢患者の心理状態だが、要するに彼らの多くは、部落での「自由」を望みつつも自分の病状や生活のいわゆる“歯止め”として、この新しい国立療養所の実現に期待するものがあったようだ。しかし反面、療養所が出来れば部落は取り潰され、一斉に強制収容されるのでは-という不安や動揺もあったことはたしかである。そうした患者の不安や動揺を押さえるのに、三上千代の説得活動が大きな役割りをはたした。

…彼女は具体的にこの療養所の性格にもふれ、そこは「自由療養地区」とし、進んで来るものを歓迎するが強制するものではない。然し各科の専門医が揃うことになっているし、完全な手術室は勿論、医療設備のよい重病者の病室もできる。…患者住宅も国費で建てているが、それも住む家のない人のためで、国の家に住むのを嫌な人は自費で新築しても、湯之沢のものを移しても、敷地は無料で借りられる。ただ国の官吏である療養所長が指導し、監督することになるけれど、同時に患者は国の直接の保護の下におかれる-等々と、熱心に説明してまわった。

三上は全生病院に勤務した経験をもち、…愛生園を観てきているので、療養所については当然詳しかった。そのうえ、湯之沢の患者たちとは大正6(1917)年以来の付き合いによって、部落の実状や患者の心情等熟知していただろうし、また草津療養所開設にあたっての計画や湯之沢患者を収容するためこの療養所の特殊な性格づけも、おそらく光田健輔あたりから充分聞いて知っていたとと思われる。…三上の動きじたい、彼女の自発的意思ばかりではなく、あらかじめ光田などの指示があってのことと考えられなくはない。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

「剛と柔」の懐柔策だったのだろう。ただ、三上千代の活動は純真に患者のことを思ってであったと推察できる。彼女のキリスト教信仰に基づく「救癩」活動は、彼女についての文献や資料を読むかぎり、その献身的な姿に感動を禁じ得ない。その三上がなぜ光田の走狗のような役割を果たすに至ったのか。『風雪の紋』に「三上千代と鈴蘭園」という小項目に従って、三上の湯之沢での活動を辿ってみたい。

三上千代は明治24年(1891年)山形県山形市に生まれた。明治36年(1903年)山形高等女学校に入学、卒業後上京、41年(1908年)淀橋聖書学院に入学、東京福音教会勤務を経て、45年(1912年)三井慈善病院看護婦講習所に入所、大正3年(1914年)看護婦試験に合格、同5年(1916年)全生病院勤務、翌6年コンウォール・リーや光塩会の宿沢薫に乞われて湯之沢に来たのである。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

大正13年(1924年)に服部けさとともに聖バルナバ医院を去る。この理由を武田徹氏は次のように述べている。

こうした強国意識と、それと裏腹の関係にある未開国と見られたくないと望む意識にと訴える論法こそ光田が「恐怖の宣伝」に加えて用いるようになったものだ。…

こうした変化は、日本国の力で、日本人(だけ)の手でハンセン病対策を行うことの重要性を意識させるようになってゆく。光田が国立療養所の設立を望んだのはそうした事情の反映だったし、療養所開設のような大きな事業でなくとも、日本人の手によるハンセン病対策の必要は強く意識されるようになっていた。たとえば群馬県草津でイギリス人宣教師コンウォール・リーが設立した聖バルナバ病院に勤務していた看護婦・三上千代は「同胞の救済は同胞の力によりてなさるるに非ざれば徹底的ならざる」と主張し、リーと決別。1924年に医師・服部けさとともに同じ草津の地に「民族系」鈴蘭病院を開設するにいたる。
そこではハンセン病者などいない国を持つことが理想に高く掲げられていた。三上はいう。

…然し乍ら、茲に我らに、唯一の恥辱がのこされてあります。それは「癩病の一等国」といふ、有難くない名称でよばれて、列国から侮辱されてをる事であります。(中略)これが未開野蛮の国ならば、さまで目障りにならぬでありませうが、如何にせん、文明国といふ盛装の手前、実に嘆かはしい面汚しではありませんか。
(「癩の根絶」「社会事業」11巻10号)

「国」がハンセン病対策を語るうえでの主語となってゆく。そして、国の体面を守るために病者を治療するよりもその撲滅が優先されはじめた時、隔離政策に残酷な技術が入り込むようになる。

武田徹『「隔離」という病い』

光田健輔の影響を強く受け、思想的に相当に感化されていることが明らかである。だが、リーと決別したのは、リーに対する不平や不満によるものが大きかった。激務に加えて、心臓弁膜症の持病を抱える服部に対する気遣いのなさ、信仰上の相違による対立、外国人に対する日本人としてのプライドを傷つけるリーの態度など、そして決定的には新たに雇う医師との待遇(給金など)面での格差が引き金となったのである。

三上は服部とともに、湯之沢と上町の境、滝下口に土地付きの家を買収し、そこに「鈴蘭医院」の看板をあげた。しかし、その後1ヵ月も立たないうちに、服部けさが急に容態が悪化し、多くの患者に見守られながら息を引き取った。

親友服部を亡くし失意のどん底にあった三上にたいし、全生病院長光田健輔は、慰めといたわりの情をこめた「全生病院看護婦を命ず」の辞令をあたえ、三上もこれを受けて再び同院の看護婦に戻った。しかし、服部との草津に新しい療養所を開設するという夢を忘れることができず、服部の墓参に草津を訪れた足で滝尻原に向かい、湿地を掘って湧き水が出ることを確認し、光田に相談して許可を得て、草津にて活動を開始する。

先ず草津町長市川善三郎(世襲二代目)に交渉した結果、町に払い下げられている滝尻原の原野のうち、水の湧く場所を中心に約500aを三上千代名義で無償で借りることに成功した。そこへ光田から1000円の寄付がよせられ、三上はその金で治療センターとみなした六畳三間の家を滝尻原に建て、同年(大正14年:1916年)4月、この家に自ら経営する「鈴蘭園」の看板をかかげたのである。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

その後、光田を通して若いキリスト教徒たち(のちのMTL)や賀川豊彦、服部の母校の女医会や修養団体希望社の後藤静香など多くの人々からの後援を得ることができたが、それでも経営は苦しく、各方面に小口の募金を訴えながら苦境を切り抜けていった。それを私費で助けたのが光田健輔であった。

何より彼女を失意に落としたのは、勧誘した入園者の減少であった。その最大の要因は、鈴蘭園には温泉が引かれていなかったことである。湯畑より2㎞も離れた鈴蘭園に温泉を導引するには莫大な費用を要した。

さらにもう一つの原因をあげれば、…湯之沢部落の存在そのものであったろう。…三上の鈴蘭園は有資力患者を対象にして開園されたのだが、実際問題ある程度の金を持っていれば、まず温泉があり、旅館や各種商店があり、隅には娯楽もあって、まったく自由にふるまえる湯之沢のほうを選ぶだろうし、同時にそこにあるバルナバ医院では、まがりなりにも医師による医療が施されている。また同園の入園者がすべて有資力患者とはいえず、どちらかといえば月15円の入園料を何とか工面して納めている患者のほうが多かった。そして彼らも、湯之沢に働き口があることや、聖公会信者となってバルナバホームに入室すれば、鈴蘭園とは逆に月々10円の補助を受けられるなどの事情を知り、一人、二人と同園を去って湯之沢に移っていったのだ。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

藤倉電線社長松本留吉がバルナバ医院新築に10万円を寄付したことを知った三上は、さすがに意気消沈し、全生病院医官林文雄や光田健輔に心情を吐露した手紙を送った。光田はそんな三上を放っておけず、彼女を伴って渋沢栄一の私邸に相談に出かけた。

その結果、内務省社会局長窪田静太郎を中心に政財界から10名あまりの人を集め、渋沢、光田、三上も同席して「鈴蘭村に温泉を引く相談会」が開かれた。だが、そこでの話し合いは、しだいに鈴蘭園のことから外れて湯之沢部落移転問題に発展し、どうせ温泉を引くなら新しい施設をつくってそこへ湯之沢の患者を移すという結論になっていった。そして三上もこれを認めたのである。いわば国立療養所栗生楽泉園設立の地歩は、じつにこの時の会合で固められたといえる。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

翌6(1931)年、三上は鈴蘭園の東にあたる栗生の地に楽生園の工事が始まると、鈴蘭園の設備を国に寄付し、楽泉園看護婦長就任への要請も断って、老母とともに宮城県名取郡秋生村に「秋生鈴蘭園」設立をめざして向かった。


光田が三上に寄付した「1000円」を現在の貨幣価値に単純に換算はできないが、大正9年の総理大臣の月給が1000円であることから推定して、200~500万円くらいではなかったかと思われる。光田が職員や患者にお金を渡したり、いろいろと私費での支援をおこなっていることはエピソードとして有名である。

このようなエピソードなどから光田健輔の人情味溢れる人柄を推測して、彼が強引に推進した絶対隔離政策についても、患者のためを思ってのことと推察して正当化する人間も多い。確かに光田のハンセン病患者への温情や親身な接し方は、当時の世情を考えれば、献身的な奉仕とも受け取ることはできる。また、ハンセン病対策に尽力する人々、たとえば三上千代や小川正子、宮崎松記や林文雄ら医官への心遣いなどは温かい人間味さえ感じられる。

ただ、やはり一方で、そこには<パターナリズム>を強く感じずにはいられない。自分に忠実な者、意に沿う者には限りなく尽力するが、反する者には容赦ない対応をする。まさに<両義性>である。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。