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多角形のグラス

私はあまり他者のHPやblogは見ない方だが、時折訪問するのが『茂木健一郎 クオリア日記』である。そのきっかけが12年ほど前に偶然目にした市川海老蔵さんの事件についての一文(当時の茂木さんの「記事」は見当たらないが…)を目にしたことである。その時にblogに書いた拙文を再掲する。なぜなら、当時も今も現状は少しもよくなっていないと感じるからだ。
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本日の『茂木健一郎 クオリア日記』に,今話題の市川海老蔵さんについての一文が書かれていた。一読して,茂木さんの公平・公正な視点に感服した。実際に自分の目で見て,肌で感じ,会話を交わし,その人物を正当に評価しようとする姿勢は,茂木さんの著書や対談,ルポの姿勢によく表れている。

海老蔵さんの事件報道に関する異義もあったのだろう。個人のプライバシーにまで踏み込んで好き勝手なことを書くことに憤懣もあったと思うが,反論は冷静であった。

私は、孤軍奮闘する海老蔵さんを心から素敵だと思った。そして、一体世間というものは、そんな海老蔵さんの姿をどれくらい知っているのだろうと思った。
メディアの中の海老蔵さんの報じられ方は、「希代のモテ男」というもの。最近になって、海老蔵さんは素敵なパートナーに出会った。その出会いを巡る報道のされ方も、どこか浮ついている。
誰もが、自分の「現場」を持っているはずである。仕事や、生活のこと。自分の身を持って何かをすることの難しさくらい、心に染みついているはずだ。そのような地に足がついた生活実感と、マスコミの風潮は別物であるように感じられる。

スキャンダルやゴシップが商売の主力となっているマスコミに違和感を感じるのは私だけではないだろうが,それを求める大衆にも問題があるように思う。

茂木さんは,私が最も痛感していることを端的に言い得ている。

時代精神というものがあるのだろう。インターネットの発達によって、誰でも簡単に不特定多数に対して意見を表明できるようになった。そのことによって、「一億総評論家」と言われる傾向が加速している。文化や経済、政治にかかわる同時代の現象はもちろん、歴史上のことや、人物評。気楽に、大抵は匿名で書き込まれたコメントが流通する。そのような時代の気分の中で、メディアの傾向も作られていく。

まるで自分が森羅万象についての評論家になったような気分を味わうのはそれなりに楽しいことなのだろう。一方で、自らの心身をもって何かをなすということの難しさは、どこかに置き去りにされてしまう。
人間の脳は、自らの身体を使って行動しなければ、本当の意味では学習することができない。日本人が一億総評論家になってしまったかの感がある今日、日本の「国民総学習」のレベルもその実質において確実に低下している。

海老蔵さんの舞台を見ながら、そのせりふの一つ、仕草の一つをもし自分がやらなければならないとしたら、どんなに難しいかと想像してみた。

アスリートになれ。「自分だったら」と想像して見ることからしか、他者に対する尊敬も、深い自負も生まれない。

まったく同感である。

本や雑誌,新聞やテレビ,インターネットによって知り得た情報について「まるで自分が森羅万象についての評論家になったような気分を味わ」って悦に入っている人間がいる。適当な意見を述べている分には人に迷惑をかけることも少ない。だが,特定の個人を名指しで誹謗中傷することは決して許されることではない。

見も知らぬ人間,一面識もない個人について,憶測だけで独断的に誹謗することは人権侵害であり犯罪行為である。僅かな情報を自分に都合よく歪曲・曲解し,事実無根の数々を捏造し,虚偽を事実であるかのように書くことは人権蹂躙である。

書籍における編集者のような「検閲」(悪い意味ではない)のないネット社会が生み出した悪しき弊害である。良心・良識の欠片もない人間が悪意をもって書くことさえ可能なネット社会は「無法地帯」と化している面がある。

「ガリ勉」君が点数にこだわり,それを価値基準として他者を見下す。逆に,「スポーツ万能」君が運動能力にこだわり,それを価値基準として他者を見下す。
劣等感も優越感も互いの裏返しでしかない。何を「価値基準」とするかで自分のプライドを辛うじて守ろうとするだけのことだ。自らの劣等感を隠すために,自己の優越性ばかりを強調する手法も,度を過ぎればイヤミでしかない。

そんなちっぽけなプライドで他者を見下す人間に他者に対する尊敬の思いなど生まれるはずもないし,他者から尊敬されることもない。

他者を尊敬することのできない人間に部落問題など論じてほしくない。まして「水平社宣言」の精神など騙る資格はない。悪意をもって他者を揶揄・愚弄する人間に人権問題など論じてほしくはない。
「卑下も自慢の中」という言葉があるようだが,情けない限りだ。
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私は人間は「多角形のグラス」と思っている。さまざまな面を持ちながら人間は生きている。良い面も悪い面も,人に勝っている面も劣っている面もある。しかも,それらは見る人間によって評価も変わる。ある人にとっては素晴らしいと思えても,別の人にとってはまったく逆のことを思うかもしれない。

この多様性を認めることができないところに,偏見や先入観が影響を及ぼしている。自分の目に「色眼鏡」をかけて,一面的にしか見えなくなっているのだ。つまり,最初から偏見と先入観の視点から「研究対象」を見る場合,その「具体的な素材」は自分にとって都合よく改竄・歪曲・曲解できるのである。

そして何よりも,他者の人格や人生を「モルモット」のように扱って平気な感覚に怒りすら覚える。人間は「研究材料」でも「モルモット」でもない。そんな感覚の人間には,人間を尊敬する人権意識など無縁なのかもしれない。

人間を「知的」であるかどうかでしか判断できない狭量な人間には,人間の多様性など理解できないだろう。所詮は「ガリベン」でしか自己の優位性を誇示できない偏狭な人間であり,「知的」以外に比べうるものをもてない人間なのだろう。

「平等」を説く「宗教家」が「レベル」に固執してしまえば,それは情けないほど底の浅い信仰になってしまうのは自明のことだ。それは,自己満足のための信仰であり,神も信仰もアクセサリーか金儲けの手段にしている「宗教屋」に成り下がっていることを意味する。

傲慢な悪意がなければ,他者が公開しているブログを「身を曝して」いるなどと表現することはできないだろう。最初から意図的に非難することを目的としている証左である。

「一億総評論家」のネット社会,その人間がどのような考えや見方でコメントを書いているのかを見極める必要がある。それ以外に,自分の感受性や感覚をゆがめないようにする方法はない。

「自分の感受性ぐらい自分で守れ」(茨木のり子)である。

だからこそ,私は自分を守ろうと思う。自分の信念を守ろうと思っている。くだらない中傷や誹謗,揶揄や愚弄を繰り返す挑発に乗る気はない。無意味・無駄なことを繰り返す愚かさを知っているから。
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当時の私は、ある特定の人間からほぼ毎日のように狡猾かつ姑息な手段と筆法によって誹謗中傷・罵詈雑言を書かれ続けていたこともあり、少々過激な文章となっている。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。