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史実から何を学ぶか

『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた』(古川愛哲)に,「生類憐みの令は悪法か」という一文がある。次のような内容で,動物の飼育者の責任を問うた最初の法律として評価している。

この法令は,天和二年(1682)に「犬の虐待者を死罪」にしたのを始まりに,貞享二年(1685)の「馬の愛護令」などの諸法令を総称して「生類憐みの令」という。
「犬愛護令」より先に全国に発せられたのが「捨て馬禁止令」であった。旗本は軍役として騎馬で出陣しなければならない。しかし,泰平が続き,馬の必要性も少なく,馬を飼う資力もなくなると,馬を捨てることが多くなる。農民も老いた馬を捨てるようになる。捨てる場合,馬の脚の筋を切り病馬にして捨てたので,これが動物虐待として発せられた法令である。
犬は扶持のある家でしか飼うことが許されないもので,武家の特権でもあった。鹿狩りなどに犬が大量に使われるからで,大名家などは家の格式を誇るように大型犬を飼っていた。加賀前田家は,元禄八年(1695)頃,江戸の三つの屋敷で合計二百四十一頭の犬を飼っていた。江戸の大名・旗本の屋敷で飼われていた犬の総数を考えると相当の数になることは想像できる。一説によると,十万頭近くいたとも言われている。しかも,基本的に犬は放し飼いである。犬は大名屋敷などから自由に江戸市中を彷徨いていた。果ては野犬化したと考えられる。江戸の史料には野犬が人に危害を加えた事件が発生して幕府の鉄砲隊が出動した記録も残されている。また,犬は試し斬りに使われ,犬をみると試し斬りをする武士もいたようである。
「生類」には人間も含まれており,「捨て子・捨て病人」も禁止されている。道中保護令も出され,瀕死の旅人も救護されるようになった。飲酒抑制を目的とした酒造制限令も出され,泥酔して暴れたり他人に迷惑をかけたりする者は厳しく取り締まられた。
このように「生類憐みの令」は「人や動物を殺す「人や動物が死ぬ」ことを何とも思わない風潮を改めようとした法令であるともいえるだろう。この法令は原則として幕府領のみに出されたもので,諸大名は追従したにすぎない。
記録に残る処分は六十九件と意外にも少ない。そのうち,四十六件を武士や足軽,中間が起こしている。町人は十五件,農民が六件,寺が二件である。彼らは,生き物を捕獲して売ったことを咎められている。

確かに,どの教科書も犬を極端に愛護する「天下の悪法」として批判的な記述であって,他の法令に関することは書かれていない。また,将軍専制の時代であっても,庶民の日常生活に支障をきたすような,人間よりも犬を大切にする法令が出せたとしても,24年間も続くだろうか。

塚本学氏は『生類をめぐる政治』で,綱吉が保護の対象としたのが捨牛馬や捨子に及ぶことを指摘して,幕府だけが全人民の庇護者であるという地位を確立しようとした政策の一環であったと主張している。また,山室恭子氏は,処罰例の少なさと,初期の三年間に集中していることを指摘して,それほどに民衆を苦しめたものではないと推測している。

これに対して,山本博文氏は『江戸のお白州』で,山室氏がこの法令で死罪となったのは十三件にすぎないと言う点について,幕府の判例集である『御仕置例類集』より,鶏を絞めて売った門前平左衛門店の与四兵衛と,頼まれて死んだ(殺した)鶏を持参した飴売りの伊右衛門などこの事件に関係する者の吟味と処罰を検討している。そして,死んだ鶏を頼んだ者(与兵衛)・与四兵衛・伊右衛門の三人ともに老舎を命じられ極刑を言い渡されている。実際には二人は牢死している。この事例は,「生類売買の禁」を違反した罪での処罰である。

山本氏は,この事例から,「生類憐れみの令で死罪になった者はあまりいないとはいえ,当初はかなり厳しい処罰があった。これを聞いた江戸の庶民は,命にかかわることであるだけに,絶対にこのようなことはできないと思ったはずである」と推察し,次のようにまとめている。

たとえば,犬の愛護令であるが,当時,食犬の風習があり,野良犬を捕まえて食べる者たちがいた。かれらは,「かぶき者」と言われる無頼の存在であった。

すなわち,世俗の秩序に服さず,ことさらに粗暴な行動をとる集団が当時の江戸にはいくつもあり,それらの人々が社会の秩序を乱し,治安を悪化させていた。この犬の愛護令は,実はそれらの者たちを統制する意味があったと,塚本氏や学習院大学教授高埜利彦氏によって指摘されている。
迫害された犬や瀕死の牛馬や捨て子といったような弱い者を保護することによって,殺伐とした世相を改めようとしたのがその目的だというのである。

綱吉が,武士や人民に道徳や慈悲の心を強制しようとしたことは確かである。また,弱い者を保護しようという姿勢も一貫していた。

まさに生類憐みの令は,塚本氏の言うように「人民精神の権力による管理策」であって,一般的な動物愛護,人民重視とは観点が違っていた。
江戸時代においては,武士は統治者で人民は保護される者という観念があった。武士に切腹が許されるのも,武士は自分の身を処することができるからである。
一方,人民は自分の身を処することができない劣った存在なので,慈悲として処罰してやるということになる。弱い者は保護してやるというのは,一見美徳のように見えながら,幕府中心の封建的な観念に基づいたものだったのである。

どのような解釈が成り立とうが,現代では考えられない法令である。それが法令として成立したのは,将軍専制という政治体制,武士と庶民との(身分による)社会的存在形態・価値観のちがい,江戸時代の社会・生活事情など,現代社会との相違である江戸時代の独自(特異)性があったからである。
同様に,他の史実やできごと,社会事情などを考察する場合,多面的・多角的な視点が必要である。さらには,その解釈においても,正解は一つとは限らない。安易な解釈は厳に慎まなければならない。
史実から何を学ぶか,私にはその方が重要である。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。