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光田健輔論(50) 変革か呪縛か(5)

「特別病室(重監房)事件」は、ハンセン病患者による犯罪への新たな対応が求められる契機となった一方で、入所者による新たな自治会組織がつくられていく端緒となった。

重監房廃止の要求は、戦後のハンセン病療養所入所者の自治会運動の再建に大きな契機となったが、同時に、そうした要求が、国家と療養所当局により共産党の煽動によるものと矮小化され、自治会運動弾圧の口実にされ、重監房廃止そのものが「癩刑務所」設置の口実ともされたのである。そのため、重監房廃止は、戦後も、国家が「癩予防法」を温存し、絶対隔離を維持する遠因ともなった。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

入所者自治会が活動を活発化する始まりとなったのは多摩全生園で結成された「プロミン獲得推進委員会」である。国家による「絶対隔離」政策は、ハンセン病が「不治」であり、「ライ菌」を死滅させることができないという「感染予防」を根拠としていた。しかし、プロミンによってハンセン病が治癒するとなれば、絶対隔離の根拠はなくなる。治癒すれば療養所を退所できるからである。
だが、そうはならなかった。むしろ、厚生省はプロミンを利用して「無癩県運動」を再開する。厚生省はプロミンを一括買い上げし、各療養所に配付したのである。これによって、プロミン治療は療養所でなければ受けられなくしたのである。換言すれば、プロミン治療が受けたければ、療養所に入所しなければいけないようにしたことで、ハンセン病患者自らが入所しやすくすると同時に説得しやすくもしたのである。実に巧妙な手法である。

…まさに、プロミン治療の普及は絶対隔離を否定するのではなく、絶対隔離維持に道を開いたのであり、ハンセン病患者もプロミン治療を受けるには、絶対隔離に順応する他はなかったのである。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

戦後、各療養所で再建された患者自治会は、全国組織の結成へと動いていく。各療養所の自治会については、それぞれの療養所の「自治会史」に詳しい。

1947年10月17日、星塚敬愛園の入所者一同は「全国ライ患者生活擁護連盟」結成への声明を発するが、これを機に1948年1月1日、敬愛園・菊池恵楓園・駿河療養所・東北新生園・松丘保養園の自治会による五療養所患者連盟が結成され、本部が敬愛園に置かれた。やがて、この運動は多摩全生園の全国組織結成の提唱に呼応し、1951年2月10日、栗生楽泉園も咥えた七自治会で全国国立療養所患者協議会(全癩患協)を結成、6月20日には、長島愛生園・邑久光明園・大島青松園の自治会も加わり、アメリカ統治下にあった奄美・沖縄の三園を除いたすべての国立療養所の自治会の全国組織が誕生した。
こうした重監房の告発やプロミン治療の開始を機とした入所者自治会の高揚に対し、各療養所当局と厚生省は警戒の念を強くした。
さらに、戦後の民主化を掲げるGHQにとっても、共産党との結び付きが恣意的に強調された入所者自治会の存在は容認できるものではなかった。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

なぜ絶対隔離は強化されたのか。なぜ「癩予防法」を改悪した「らい予防法」が成立したのか。この疑問に、藤野は次のように述べている。

…戦後、基本的人権の尊重をうたった日本国憲法が施行され、プロミンが登場したなかで、なぜ、ハンセン病患者への隔離が改善されるどころか強化されていったのかということについて、以前から疑問であったが、人権意識とプロミンを武器に患者が隔離に応じなくなったり、療養所当局に反抗的になったりすることを想定して、隔離を強化したのではないかと考える。そういう意味で、プロミンと「癩刑務所」は矛盾しないのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

つまり、これまでは懲戒検束権によって各療養所の「監禁室(監房)」及び栗生楽泉園の「特別病室(重監房)」の存在で入所者の不満を抑圧して従わせてきた療養所当局にとって、それに代わるものとして「癩刑務所」の開設が必要であった。光田は「草津カンゴク事件などは司法当局が癩患者で犯罪を犯した者の刑務所を建てないから起こったことで、このことは救癩史四十年にわたっての懸案で司法当局の猛省を促したい」(『時事新報』)と、責任転嫁としか思えない強弁をしている。

当初、「癩刑務所」の設置を求める厚生省と、療養所ヘの収容を求める法務府の対立があったが、療養所内に「代用監獄」を設けるという法務府の妥協案に厚生省が同意するに至った。一方では、国立癩療養所長会議は菊池恵楓園に「癩刑務所」を付置することが合意されている。この状況を一変させる事件が起こる。

1950年1月16日深夜から17日未明にかけて、栗生楽泉園で、入所者同士の対立から殺人事件が起こった。被害者は園内で暴力的なグループで、それに反発したグループが起こした3名の殺害であった。しかも、被害者の一人が韓国・朝鮮人であり、殺害に関与した被疑者14名も韓国・朝鮮人入所者の文化団体である協親会の会員であった。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』第3章に「一・一六事件」と題して、この事件が詳細に記述されている。事件のあらましを簡略に記しておく。

東京より警察の護送車で、中岡哲男(朝鮮人)と多原利夫(奄美出身)の2名が栗生楽泉園に送致されてきたことが発端である。両名は“浅草のダニ”と呼ばれる、暴力によるゆすり・たかりで暮らす乱暴者(ヤクザ擬いのならず者)であり、ハンセン病を発症して全生園に収容されるが脱走し、浅草に舞い戻って同じ暮しをしていたところを再び逮捕され、栗生楽泉園に送致されてきた。早々に、彼らは同病者に乱暴を働くようになる。
そんな彼らに目を付けたのが、当時、在日朝鮮・韓国人で組織されていた「協親会」内部で対立していた一方の側である宮田守や大屋一郎たちである。彼らの暴力を利用しようとしたのである。さらに多原の仲間(兄弟分)の大和博が入所してきた。3人は同じ舎の同胞八木次郎と共に、対立していた側の保利の部屋に乱入し暴力沙汰を起こす。矢島園長と自治会(総和会)幹部が相談し、彼らを送り返すことを決めて勧告する。転院の条件として支度金や洋服・靴を支給することで折り合いが付いたが、一向に転院しない。さらに支度金などを要求してきた。それを条件に彼らが応じたところで、事件が起こる。
仲間内で送別会を開いていたとき、大屋が中岡に「保利、井伊、上村等を殺してから出て行って呉れ」と言って中岡にドスを投げた。席を立った中岡は協親会事務所を襲い、暴れた。万一に備えていた一方の幹部は逆に中岡を抑え込み、さらに仲間に招集をかけて逆襲に出た。結果、中岡・多原・大屋の3名が殺害された。

事件の顛末をみれば、乱暴者による犯罪行為・迷惑行為、朝鮮・韓国人で組織された「協親会」内部の対立から生じた抗争事件ということになる。明らかに警察による逮捕・司法による裁判となるべき事案である。しかし、ハンセン病患者による事件であり、療養所内での事件である。この特殊な環境が問題を複雑にしている。

…いうまでもなくこの事件は、厚生、法務の両省をはじめ、関係各方面に大きな衝撃をあたえた。しかし彼らは、こうした事件等のよってきたる原因――すなわち歴史的社会的なハンセン氏病行政のあり方については何ら抜本的検討を加えず、かえってあくまでも「らい予防法」に基づく患者規制に主眼をおき、その観点からの措置をさらに強めてさえきた。具体的には、この26年12月、熊本県菊池恵楓園に、ハンセン氏病患者の医療刑務所建設を、多くの反対を押し切って着手したのである。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

この事件は、療養所内の治安維持という名目により「懲戒検束権」と「癩刑務所」の必要性を正当化するのに十分であった。事実、職員のみならず入所者も容認している。
光田健輔は「だから言っただろう、重監房は必要だったのだ」と自らが推進してきた政策の正当性や自らが要望した「懲戒検束権」の必要性を確信したことだろう。そして、その確信がより強硬な絶対隔離へと提言となって「三園長証言」に帰結したと考えている。

…1950年2月24日、厚生省医務局長・公衆衛生局長が各ハンセン病療養所長に対して、法務府と最高検察庁の見解として「癩予防法」の懲戒検束規程は憲法違反ではなく「公共の福祉のため、已むを得ない措置であって、憲法その他の法令に違反する者でわない」という結論を通知していた。とりあえず懲戒検束規程が違憲ではないことを明確にしておき、そのうえで「癩刑務所」の開設を急ぐという方向に向かっていく。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

1953年3月10日、熊本刑務所菊池医療刑務支所として「癩刑務所」は開庁される。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。