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対岸から

長島を対岸より初めて眺めた。
先日,友人と「岡山いこいの村」を訪ねた。このレジャー宿泊施設の裏山には野鳥観察コースがある。散策のつもりで歩いてみた。日差しが強く,日中の暑さに汗が流れる。

夏の暑さ,太陽の光,汗をかくことも必要と思い,自然の中で過ごそうと思ってここに来たのだからと,山の中の散策にチャレンジしたのだが,さすがに日中の山登りは堪えた。しかし,標高300m近くになると,吹く風も清々しく,実に心地よい。木陰で,木々の間を吹く風に身を任せていると,流れる汗がひんやりとさえ感じるほどだ。

山の中程まで登って,少し開けたところで振り返ると,そこに「長島」があった。

目の前に広がる小豆島の姿,快晴だったのですごく近く感じられた。その手前に小さく,2つに分かれた「長島」の全景が見えた。私は,長島をこのように対岸から,その全貌を眺めるのは初めてのことだ。今まで,このように「対岸」から見ることは一度もなかった。

しばらくの間,漠然と眺めていたが,そのうちに何とも言えぬ違和感が心に広がっていった。長島の職員棟,礼拝堂,医療棟,不自由者寮舎など患者住宅が緑に覆われた山の狭間から見えるのだが,そこに生気が感じられない。まるで無機質な工場のようにも見える。

たぶん私は,そこが「愛生園」であることを知っているから,そう思うのかもしれない。何十回となく通い,長島のほぼすべてを歩いている私にとって,静寂ではあっても生活の気配を感じる愛生園なのに,対岸から見る愛生園はまったく別の世界に感じてしまう。人の気配,生活感がない。動きがないのだ。そして何よりも強く思ったのは,人工物の感覚だった。

『「隔離」という病い』の中で武田氏も書いているが,まず最初に「建物」があり,そこに人々が住み着いたのであって,人間が住むために切り開き住居を建てたのではない。

…どこでも同じような長屋が並ぶ風景が延々と続いた。…風景はいかにも退屈だった。この差異の乏しさにこそ,僕はここを設計した人たちの意識が示されているように感じられた。
少なくともそれは,そこに暮らすここの人びとの生活の個性を尊重する姿勢ではなかった。はじめから「かた」にはめようとする意志,どんな暮らしぶりの人でも同じ「かた」にはめられると信じて疑わない暗い傲慢さのようなものを僕は感じはじめていた。

知らない人にとっては,リゾート地のように感じるかもしれない。宿泊客の何人かに聞いてみても,そこが国立ハンセン病療養所であることを知っている人はいなかった。島に住む人の住居かバンガロー,倉庫,あるいはホテルかペンションのように思っていたそうである。
ホテルの前庭に,一望できる島々の展望案内板があるが,島の名前のみが記されているだけで,どこにも療養所とは記されていない。ホテルのパンフレットにも,ブルーラインの道の駅にある周辺の景勝地を記した案内図にも,長島は書かれていても療養所の名はない。

ひっそりと静まりかえった対岸の島,建物だけが見える。十数年後,住む人のいなくなった長島,施設だけが残る島として,変わらぬ風景となるような気がする。
これが光田健輔の望む長島の未来像であり,国家が望むハンセン病撲滅が成し遂げられた姿だったのだろうか。

ハンセン病という「病」が地上から消え去ることは,ハンセン病患者が消滅することである。これが光田健輔の信念だった。完全隔離・終生隔離・絶滅隔離の信念である。

私は,2日間,幾度となく長島を見続けていた。部屋から,前庭から,ロビーから,様々な角度から長島を眺め続けていた。

写真を撮ることさえ忘れていた。翌日,デジカメを持ってきていたことを思い出して数枚を写した。しかし,昨日のような快晴ではなく,雲が重く空を覆っていた。まるで,らい予防法のため島内から出ることができず,終生隔離されていた当時の彼らの心を投影しているかのようだった。

対岸から「長島」を見て,あらためて「隔離」の意味を考えている。そして私は,自分自身が「対岸」に生活している人間であることを強く感じている。隔離や差別においても,私は「対岸」にいるのだ。この「立場」の自覚が重要である。

眼前にある島で何が起こっていようとも,隔絶された島の対岸に生きるかぎり,我々は無関係であっても無関心であっても生きていくことができる。知ろうとしなければ,見ようとしなければ,そこが何であっても,何が起こっていても,対岸から眺めるだけで生きていくことができる。

そう考えたとき,このような政策を実行した国家の責任ばかり追及することの欺瞞を感じる。国家も人間が創りだし,政策も人間が作り出し,それを黙認しているのも人間なのだ。責任追及や犯人捜しのような批判に終始することよりも,歴史的教訓としての検証作業の方が重要であると,私はそう思う。そして,現在を生きる人間の一人として,私自身の生き方と在り方もまた検証すべきと思っている。
自己の正当化と他者の批判からいったい何が生まれるというのだろう。虚しい自己満足しか残らないように思う。私はそんなもののために,自分の人生を生きようとは思わない。

光田健輔や彼の後継者たちを断罪することや責任を問うこと,彼らの言動の誤謬と影響を批判すること,私はそれらを目的とはしていない。外国との関係からハンセン病対策を終生絶対隔離政策とした明治以後の近代国家の誤謬と責任を批判することも目的ではない。批判が目的となってはいけないと思っている。批判のために「検証」作業があってはならないと思っている。
批判が目的となれば,目的のために手段が正当化される。いかに傲慢で独断的であっても,辛辣な表現であっても,揶揄・愚弄する言説であっても,それらが「批判」であることで正当化されるというのは,まちがっていると私は思う。

私が問い続けるのは,「なぜ」である。なぜ隔離政策が生まれたのか,なぜ「らい予防法」がつくられ,それが今日まで改正も廃止もされなかったのか,等々の「なぜ」を明らかにしていく「検証」作業を通して,関わった人間の考え,その当時の国家を取り巻く情勢,歴史過程が解明され,今日の様々な課題を解決していく「視点」が見えてくると考えている。

長島愛生園の対岸に立つことで,今まで見落としていた視点を知ることができた。愛生園の中,ハンセン病療養所の中に入らないと見えないものもある。しかし,「木を見て森を見ない」と同様に,愛生園を外から見ることも大切である。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。