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金泰九さんの生き方に学ぶ

金さんは,僚友への追悼文に「ハン(恨)」を「自らの不運を嘆く」という意味で書いたと記している。日本による植民地支配の中で「韓国人」として生まれ育ち,戦後は「ハンセン病」患者として生きねばならなかった金さんの半生は,自らの「ハン」からの解放の旅であった。しかし,それは肩に力を入れた生き方ではなく,「自らの不運」をあるがままに受け入れながらも,「自分にできること」を自然体で求め,人生を前向きに生き続けた姿である。
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金泰九さんは,1926年,日本の植民地支配下にあった韓国の慶尚南道で,農家の長男として生まれる。日本人に対する「恐怖」を周囲の大人から聞かされて育つが,小学校の日本人校長の姿に感銘を受け,日本人に対する恐怖心や反日感情が少し和らいだ。12歳の時,日本に定住していた父親を頼って日本に渡り,大阪で暮らすようになる。旧制中学校時代,級友から「半島人」と云われ差別を受け,初めて朝鮮人である自分を自覚した。しかし,当時は同胞である朝鮮人の姿に劣等感さえ抱き,強くなるしかないと柔道部に入って練習に励んだ。朝鮮人としての劣等感を克服するために,尊敬され信頼される人になりたいと考えたからである。級友の多くが予科練に進む状況の中,皇国史観の影響もあり,軍人を志す。陸軍兵器学校にて終戦,同胞の先輩に「軍人の道はまちがいではなかったか」と言われ,返す言葉がなかった。

復学して大阪市立商科大学(現・大阪市立大学)に入学後は,学生結婚をしたこともあって,勉学よりも商売に精を出した。1949年に「ハンセン病」を発病する。残り少ない人生を妻のために生きる決心をして生活するが,1952年に長島愛生園に強制収容された。以後,社会復帰をしていた5年間を除き,現在まで長島愛生園で暮らしている。

自分が幸せなときは他人を恨むことはないと思います。また豊かな心を持つ人はそうでない人より偏見・差別もしないようです。世の中みんなが幸福で心豊かに生きるための文化度を高めていきたいと思っています。自分が幸せだと思う「センス」を文化だと思います。

これは,金さんが難聴の少女に送った手紙の一節である。過酷な運命を生きる金さんが,なぜ常にこれほどまでに柔和で穏やかな笑みを浮かべ。身体の弱った自分よりも周りを気遣う限りない優しさを持っているのか。決して自らの逆境を嘆くこともせず,自信と誇りに満ちて生きているのか。これは金さんと出会った誰もが実感することである。

病に苦しみ,人生に失望し,生命を絶った多くの僚友を見送りながら,また厳しい隔離政策と排除の中で,自ら人生を捨てた生き方を選ぼうとする僚友を見つめながら,しかし彼は決して希望を失うことはなかった。なぜなら,自らを苦界に追い込んだ「ハンセン病」について勉強しながら,施設や待遇の改善要求,17年間という長きにわたっての本土への架橋要求や,「らい予防法」撤廃要求,国家賠償訴訟など数々の運動の先頭を歩み,彼自身が常に自分に対して「自らの変革」を実践してきたからである。彼はこう書いている。

まず入所者の我々自らを病気であったための萎縮と劣等感から解放させることである。

「差別はねぇ,社会全体の不幸なんだよ」と語る金さんの目は,今,より広い世界に向けられている。かれは,自らの生活体験を通して「ハンセン病」に対する偏見や差別を克服するためだけでなく,在日韓国・朝鮮人に対する差別や部落差別などあらゆる差別と闘うために「語り部」として社会啓発に全力を注いでいる。これが彼の生きざまである。

差別観念や優越感は,決して人間が生まれながらにして持っているものではなく,差別的な社会の仕組みの中で,形成され作用されるものだと言う。さらに重要なことは偏見差別は,差別される側だけの不幸でなく,社会一般すべての不幸につながることである。このことを大衆が学び知ることにより,日本における偏見差別は間違いなく減少するはずである。

この金さんの訴えを通して,今自分に問われている生き方について考えたい。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。