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40歳で、英語を始める。

この春から毎日、オンライン英会話のレッスンを受講している。

最近、仕事で、海外との会議をする機会が増えた。会議中は、通訳の方が立ってくれているものの、私だって、少なくとも英語のリスニングは、ある程度できた方が、会議がスムーズになる。英会話レッスンには、会社も積極的で補助してくれるとのことなので、この機に受講し始めることにした。(やみくもに会話だけ繰り返しても非効率らしいので、併せて語彙を増やすトレーニングもアプリで行っている。すべてスマホで完結。便利な時代だ)

必要性に駆られて学び始めるというのは、なんであれ心地よいものだ。役に立つ様が想像できるとき、勉強は最も捗る。40年間、一度も学びたいモチベーションが沸かなかった英語に、ようやく取り組む気になれた。ご多分に漏れず、私も中学・高校・大学と、英語教育を受けた身だが、正直にいって、うまくいった感触はなく、苦手意識と敗北感を持ったまま過ごしてきた。ここで逆転に持ち込めば、人生を費やした伏線回収劇にできる。

だが一方で、拭えぬ感情もある。よりにもよって、2023年、AI元年である今年に、英語を学び始める…というのは時代錯誤というか、どうにも無用な逆張りをしている感がしてならない。既にDeepLを始めとするAI翻訳の進化は目覚ましいし、音声言語の解釈の精度も高くなっている。きっと、私の英語力が向上するより前に、AIが対話言語翻訳を完成させてしまい、私が英語を学ぶ必要性自体が失われるだろう。AIとの競争には勝てる気がしない。もし英語力が必要になるタイミングが、あと3年遅ければ、そもそも学ばず済んだかもしれない。労を払って学んだ末に、そのスキルがあっという間に陳腐化する気配があり、虚しさがある。早朝、あと少し待てば始発が出る時刻なのに、タクシー代を払って家に帰るような馬鹿馬鹿しさだ。

いま教育現場はどうなっているのだろう。2023年の中学校では、学生が冷笑的にこんなことを言っているのだろうか。「英語なんて習って、将来、何の役に立つんですか?」。かつて、この槍玉にあがる対象は、数学だったのだが、ここに来て英語も立場が危うくなっている。実際、彼らがそれを習って、将来ずっと役立つ可能性は低い。実用性という意味では、書道やそろばんといったレガシーの教材と大差ないだろう。

さらに言えば、英会話レッスン自体も、遅かれ早かれAI講師に置き換わっていくのは目に見えている。いま私が受けている、人力のオンライン授業は、前もってレッスンを予約し、時間を合わせて参加する必要がある。そのうえ、相手は生身の人間だ。毎日30分、フィリピンに住む初対面の講師がオンライン越しに現れ、初対面特有のぎこちない会話をする日々。英語のリスニングに集中するのとは、別の疲れがある。柞刈湯葉先生の語彙を借りるなら、毎日その時間で「一日あたりに使える社会性の持ち分を、そこで若干、消費してしまう」感覚だ。

これがAIに置き換われば、時間の制約はなくなる。すでにAIと英会話するサービスも登場している昨今。AIが相手なら、いつでも始められ、いつでも終われる。私の社会性が消費されることもないだろう。そして間違いなくコストも安い。

かつて、この人力オンライン英会話というビジネスを発明した人の商才には、感嘆するばかりだ。インターネット高速化インフラが世界に普及するタイミングを狙って、発展途上国と日本をオンラインでつなぎ、英会話教育サービスとして切り出した。関わる人全てが幸せになる、素晴らしいエコシステムだった。だが、ここにきて、サービスにとって最大の挑戦となる時期が迫っている。この英会話というカテゴリーにおいて、生身の人間である価値は限定的で、かなり分が悪いだろう。眼前で、まさしく「AIに仕事を奪われる」光景が発生しつつある。

このオンライン授業は、いつかなくなる村の風習。そう思って今を楽しむことにする。最近いちばん楽しかったのは、午前中のレッスンで、カメラの向こうから、鶏の鳴き声が聞こえたときだった。講師の背面に映る壁。その奥の風景に、おもわず想像が及ぶ。生身の人間でしか起こりえない現象。今のところAI英会話に、この機能はない。

Cock a doodle doo!

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