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ゲームと、ゲーマーと、人狼と

以前、巷では「ゲーム配信や動画投稿による金銭を始めとした利益が、ゲーム開発者へ還元されてなさすぎるのではないか?」という議論が起こったことがある。

自分は「そういう議論が起こっているという事を紹介する記事」を見ただけなので、別に議論に参加していたわけではない。

だが、縁があってゲーム開発の内情をそれなりに理解していた事もあり、何も思わないわけでもなかった。

 

昨今、ゲーム配信や動画投稿は珍しいものではなくなった。

それに伴い、注目を集めるのはゲームそのものよりも配信者や投稿者に移り変わりつつある。

だからこそ、上記の記事で言われているような問題が起こったのだ。

ユーザーの興味やお金の流れが、ゲームではなく配信者に流れてしまっている。

  

昔は、なんて言い方は意味がないと思う。

今は今の正しいフォーマットがあるからだ。

しかし、昔はコンテンツファーストであり、配信も動画もそのゲームにあやかるファンアート(ファンコンテンツ?)の一つに過ぎなかった。

だからこそクソゲーオブザイヤーやらMADやら、ゲームを主体とした二次創作の文化が盛んだったわけだが、最近はそれらの文化も比較的斜陽になった。

イラストを始めとしたファンアートは相変わらずという感じだが、MAD等の映像作品はもうあまり見なくなったように思う。

恐らく、配信や動画そのものが、映像作品としてのゲームの二次創作というか、文化の一つとして根付いたからだと思う。

そして時代を経るにつれて、次第にゲームそのものよりも配信や動画の方がコンテンツとしてパワーを持つようになり、立場は入れ替わった。

これはあくまでも僕の主観的な感想なので、そう思っているという以上の意味合いはない。

それにしても、コンテンツというのは愛されるものではなく消化されるものになったのは事実だと思う。

統計が取れるわけでも証拠があるわけでもないが、コンテンツの役目は変わった。

 

この感想は、時代の移り変わりに伴って元より漠然と感じていたことだった。

SNSが発達し配信サイトも整備され、ゲームとゲーマーの間にはもう一つ配信者及び投稿者という隔たりが生まれた。

これは、冒頭で話した「ゲーム開発者への利益の分配」に関する議論を通して改めて痛感、再認識した事だ。

元々思っていた事ではあるが、問題が表面化してきて改めて考えてみた結果そう再認識した。

要は、作品へのリスペクトやラブが希薄になったなと思う。

いや、この感覚を的確に言語化するならば、希薄になったというより、表面的になったというべきだろう。

今回の記事では、この「コンテンツへのリスペクトとラブが表面的になった」という点について言及していきたいと思う。


 

批判の正当性

冒頭で紹介した「ゲーム開発者への利益の分配に関する記事」というのは、ゲームとゲーマーの関係性に関して再考する機会を与えてくれた。

しかし、それだけならこうしてわざわざ記事にする事もなかっただろう。

僕がなぜ、1円にもならない記事をこうも仰々しくも執筆しているのか。

それは、FF16の存在だ。

 
最近、FFナンバリングのFF16がリリースされたのは言うまでもない。

そして、それを酷評する意見が絶えなかったのも言うまでもない。

酷評する意見の内容が事実かどうかは一旦置いておくとして、酷評する意見は多かった。

これについては何とも思わない。

というか、形式だけで言うなら正しい状態だと思う。

ゲームなんてものは人によって好き嫌いが分かれるし、文句のつけようのないゲームなど存在しないのは当然のことだ。

だから、厳しい意見が飛び交うのもまたゲームとしてあるべき姿だと思う。

しかし、問題はその意見を誰が言ったのかということだ。

何を言ったかではない。

どんな人が言ったのか、が重要だと思う。

例えば、一週間で77時間プレイしてやりこみコンテンツを一通り制覇した人が「クソゲーでした。」というなら納得できるだろう。

そこまでやりこまなくとも、最低でも購入してインストールして自分の肌でそのゲームがクソゲーである事を感じ取った人が「クソゲーだな。」というなら納得できる。

だが、配信やプレイ動画だけ見て、何となく気に入らない所があって「クソゲーに感じる」という人の意見に納得できるだろうか。

これは、FF16が真正面からぶち当たった問題だと思う。

つまり、観ただけでプレイした気になっている人がいる。

配信や動画を観ただけで、表面的な良し悪しのみで面白い面白くないを理解した気になっている人がいる。

もちろん、否定的意見を述べる人全てがエアプと言っているわけではない。

例えば、買ったけど慣れずに最初の1時間で辞めた人にとってはクソゲーだったことだろう。

それは正しい意見だ。

ゲームにおいてファーストインパクトが重要なのは開発者自身も理解しているし、理解していないといけない。

だから、そこでしっくり来ないどころか嫌いになってしまった人がいるならば、それはそのゲームが悪い。

主観的な意見であることは否めないが、肌に合わずプレイを断念した人は満を持してクソゲーという言葉を使っていいと思う。

ここで重要なのは、しっかりそのコンテンツに触れて、自分の肌で感じた事を意見として述べているということだ。

これほど開発者にとって嬉しい存在はいない。

肯定的な意見でも否定的な意見でも、ちゃんと作品に手を伸ばしてインストールして起動して、そしてその結果思ったことなんて胸の内にしまえばいいのに、ありがたいことにSNSか何かでフィードバックをくれる。

そこまで労力を割いてくれるユーザーに、感謝の意を抱かない開発者などこの世には存在しない。

例え否定的な意見だろうと、プレイしようとした意志が感じ取れたり、プレイした結果の意見なのであれば、邪険に扱う事など誰ができようか。

もちろん肯定的な意見のほうが嬉しいのは間違いない。

要するに、開発者はユーザーの熱量を感じるのが何よりも嬉しい人種なのだ。

と言っても、これは開発者に限ったことではない。

この「自分で触れて感じて考えた意見」に対して、同じように熱量を上げる人種がいる。

それは、ゲーマーという人達だ。

ゲーマーは、同じゲームを中心としたコミュニティで意見を交わすのが大好きな人達だ。

まぁ、多少ゲーム至上主義だったり、ゲームへの入れ込み方が強い人だったり、否定的な意見を排除するような凶暴な人がいるのが玉に瑕だが。

だが、彼らもまた、開発者とは別のベクトルでゲームを愛している人たちなのだ。

 

人狼の存在

さて、ここで一つ問題がある。

様々な意見を交わし合うゲーマーという人種の中に、そのゲームをプレイした事のない人狼が紛れ込んでいる。

その人狼は配信や動画を観ただけでプレイした気になり、ゲームを批判できる要素があれば烈火の如く批判する。

その人狼は視野が狭く、良い所が100個あるゲームだろうと悪い所が1個あるとそれをあたかもゲームの全てであるかのように語る。

別に、人狼の存在が良いか悪いかの話ではない。

彼らもまた、ゲームを取り巻く人間としてありえる部類の一種だ。

今も昔も、エアプで知った気になる人は珍しい存在ではない。

古来より、人と人狼は共存してきた。

だから、人狼は人狼でも一概に排除するべきとは言えない。

では、本質的に問題とされるのは何なのだろうか。

それは、人狼の数だ。

この人狼は、数が少なければ村の端っこで徒党を組み縮こまるだけの存在だが、数が増えてくると途端に強気になる。

人狼は、自分が同調している意見が大多数だと思うや否や、それまでとは比べ物にならないくらいの大声で否定してくる。

それは厄介なことに、何も知らない村人が新しく入ってきたとしても、人狼の印象操作によって村の魅力を知らないまま出て行ってしまう。

そうしていく内に村の文化やコンテンツは衰退していき、コミュニティは荒廃してしまう。

そして人狼はまた、自分が住みよい場所を探して別のコミュニティに移っていく。

 

FF16の過酷な環境

こんな皮肉めいた言い回しをしたのも、直球で表現すると僕は暴言を我慢できなくなりそうだからだ。

要するに、そのゲームを好き、もしくは嫌いで語り合っている人たちで形成しているコミュニティがあるとする。

だが中には、そのゲームの本質を知らないのにあたかも物知り顔で意見を述べる人もいて、そういう立ち回りをする人は大抵否定的な意見を述べがちだ。

そして、そういう人たちが少ない内は問題にならないが、多くなるとそれが大多数の意見となる。いや、大多数の意見に見えてしまう。

そうすると、そのゲームないしはコミュニティに興味を持って参加してきた人が、その事実無根で短絡的な否定意見を目にする可能性が増える。

そうすると、定着するユーザーは減りコンテンツは伸びにくくなってしまう。

ということ。

FF16はまさにこの問題に直面した。

ハッキリ言って、忖度なしに良いゲームだった。

悪い点がないとは言わない。

だが、それに余りある良さは絶対にある。

PS5がそもそも売れてないこと、FF16以外に高価なPS5を買う程のタイトルがろくに出揃ってないこと、前作のFF15が大失敗しユーザーの信頼を裏切ったこと。

FF16は、ゲームとは関係ない要素で減点されやすすぎる環境が整ってしまっていた。

だから、ゲームをプレイしていない人でも簡単に批判することが出来てしまう。

それ故に、ゲームを買うのを躊躇う条件が整いやすくなってしまっている。

それ故に、興味を持った人は配信や動画で満たすしかなくなり、大衆の意見に飲まれ、ただ気持ちよくなりたいだけの狂人は、やがて人狼となる。

 

ゲームと配信者とユーザーの関係性

ちなみに、狂人とか人狼とかネガティブなワードを使ったが、もう一度言うが彼らの存在を否定する気はない。

この言葉選びも、ゲームを取り巻く人種の分類をするための比喩に使っただけで深い意味はない。

とりあえず、彼らのような存在が増えると、ゲームというコンテンツにとってとてもややこしい状態になるということだけ理解してもらいたい。

 

冒頭で「コンテンツファーストだったはずの配信者や投稿者との関係性が逆転した」という話をしたのを覚えているだろうか。

ゲームそのものに興味を持ってから配信や動画を閲覧していた時代はもう過去のこと。

今はむしろ、配信や動画を観ていたらたまたまゲームを知り、興味を持って購入するという方が主流だろう。

全てが全てそうというわけではない。

あくまでも過去と現在の傾向を比較したらそう、というだけ。

だから、配信者がプレイしないとゲームの知名度は上がらない、なんてことはない。

だが、配信者がプレイすることでゲームの知名度が上がるのもまた事実だ。

そして、配信サイトの整備も相まって、ユーザーはプレイヤーとならなくてもそのゲームの実態を知ることが容易になった。

それに伴い、そのゲームの本質的な面白さを知らないまま否定的な意見を述べる人が加速度的に増えたように思う。

何度も言うが、統計や証拠があるわけではない。

だが、FF16を見ているとあまりにも行き過ぎていると思わざるを得ない。

 

まとめ

さて、今回の記事は大分センシティブなテーマを取り扱った。

読んでくれた人の中には、もしかしたら僕が熱狂的なFF16信者で、否定的意見を述べる人たちを悪者扱いしているように思う人もいるかも知れない。

だが、正直否定的な意見を述べる人は僕にとってどうでもいい存在である。

ゲームの評価は僕が手ずからプレイして僕で決める。

だから、FF16を面白いと思った時点で、面白くないと思っている人の意見は既にどうでもいい。

合わなかったんだね、としか思わない。

否定的な意見を述べるのも構わないと思う。

そういう意見を糧にして次に繋げるのもまたゲーム開発だ。

だから、必要な意見だと思う。

間違っても、僕はこの記事においてFF16に寄り添ったわけでもないし、批判する人を悪者扱いしたわけでもない。

一重に「ゲームをプレイしてもないのに、表面的な要素だけでゲームを批判する人の多さが危険なレベルまで達しつつある」ということを理解して欲しい。

同時に「コンテンツと配信者とユーザーの関係性が歪んでいる」という事も理解して欲しい。

 

ゲームというコンテンツは無くなりはしないだろう。

これほどまでに文化として定着して、可能性のある分野がただ衰退するなんてことはありえない。

だが、今の「ユーザーの質がひどく低下している状態」を続けていると、その内業界全体の衰退に拍車をかける要因になるのは間違いない。

今はまだ、ゲーム会社が自分たちのセンスや努力で高品質なコンテンツを提供することで業界を高品質な状態で維持してくれている。

また、配信者もゲームの魅力を伝えようと努力している。

だが、ユーザーはただそれに甘んじるだけで、あまつさえ自分たちがコンテンツを牛耳っていると勘違いしている。

このユーザーの質が悪い状態を改善しない限り、高品質な状態のゲーム業界を保つのは近い将来必ず難しくなってくる。

仮に、FF16のように巨大なIPで、品質は十二分なはずなのに何故かバッシングを受けるというような状態が続いたらどうなるだろうか。

世界屈指のゲーム会社が力を尽くして作った高品質なゲームが、何故か批判され売上が伸びず報われなかったらどうなるだろうか。

彼らは大きなプロジェクトは諦めて静かに衰退し、消えていくかもしれない。

これはこの会社だけの問題ではない。

業界と、ユーザーの話だ。

ゲーム会社に忖度しろという話ではない。

ただ単純に、自分の目で見て、肌で感じてから意見を述べろということだ。

ただそれだけのことで、”高品質なユーザー”という状態を作ることが出来るはずだ。

FFが衰退するだの、大分失礼な仮定の話をしたが、僕が危惧している点はこれで間違いない。

また、コンテンツと配信者とユーザーの在り方について歪になりつつあるのもまた間違いないと思う。

明日からゲーム批判をやめろとかいうつもりはない。

ただ、ちゃんとプレイしてから評価したほうがいいというだけの話。

当然のことのはずだが、環境や時代のせいで正しい手法を取らずとも曖昧ながらゲームを理解することが可能になっている。

でも曖昧なままでは、本来もっともっと売れてこの先もっと高品質なゲームを作れたはずの機会を、そのユーザーの甘えで破壊することもあり得る。

だから、少しでも興味があって、もし余裕があるのだとしたらきちんと自分の手でプレイしてから意見を述べてほしいと思う。

僕はゲーム業界の代弁者でも何でもないが、1ゲーマーとして少しでも多くの人が正しい意見を述べてくれるようになって欲しいと思っている。

 

肯定も否定も、ゲームが育つのに必要な熱量であり、栄養素だ。

だから、否定はしたっていい。

だけど、「ゲーム配信で観た映像」とか「SNSで見た意見」などのような表面的な情報でその熱量をぶつけるのは危険だ。

ちゃんと自分の目で見て肌で感じた事を、自分の意見として開発者やコミュニティにぶつけて欲しい。

自分が興味を持ったゲームなら尚更、曖昧な意見ではなく、自分の言葉をぶつけて欲しいと思う。

終わり(ง ˘ω˘ )ว


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