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●我々はキュウリしかもらえない猿である!?

 フランス・ドゥ・ヴァールというオランダの動物学者が行った有名な実験があります。
 
二匹の猿にそれぞれきゅうりを与えるとそれぞれがそれを食べます。

「うまい」  「うまい」

 しかし、片方に猿の大好物であるぶどうを与えて、 もう片方にはキュウリしか与えないと・・・・
 

「おれはキュウリであいつはぶどう?」

 

「ふざけんじゃねーぞー!ボケがぁ!!ぶどうよこせー!!」 

キュウリしかもらえなかった猿はそれを投げつけて怒り出します。

 
 この実験は、人間に「平等」という概念がセットされたのは相当の大昔であることを示唆したものだとされています。
 
 さて、「相対的貧困」という考え方がありますよね?寒さをしのぐ衣服も住む処もなく、おなかがすいて亡くなってしまうような「絶対的貧困」とは違って、「他の人と比べたら貧しい」という状態を指します。具体的には収入の中央値の半分以下の収入しかない人が相対的貧困とされています。
 
 日本人の収入の中央値は420万円くらいらしいので、収入が210万円以下だと相対的貧困ということになります。では年収420万の生活とはどんなものでしょうか?
 
 実際の手取りは320万くらいになってしまうので、月々に使えるお金は27万円弱。たとえば、月65,000円のアパートに住み、新車で買った小さな国産車のローンが月々3万円、食費は月6万程度なので1日でいうと2,000円。朝はトーストとサラダ、コーヒーくらい。昼は600円くらいの弁当ですが時々1,000円のランチに行くこともあります。夕飯は基本自炊ですが、たまには仕事の帰りに牛丼とかラーメンを食べることもあります。あと、通信費と光熱費が併せて3万くらいはかかるので、そうすると残るのは85,000円。ここからガソリン代やら交際費やらなんやかんやでかかりますので貯金ができるのは多くて月に5万円。ちょっと買い物をした月は貯金にまわすお金はありません。
 
 けして余裕がある生活とは言えませんが、さらにこの半額以下の収入になると、飢え死にすることはないかもしれませんが日本人としてはけっこうきつい生活になります。
 
 それでは手取りが500万円くらいあれば今の日本においては相対的な富裕層なのでしょうか?東京の都心部では平均年収が1,000万円を超える区もありますので、そういう処に住んだ場合は年収500万円の人でも相対的な貧困ということになっちゃいます。逆に東京でも平均年収が300万円台の区もありますので、そういう処に住めば相対的にはけっこう裕福、ということになります。
 
 これは、たとえば年収2,000万の人が都心のマンションに住んでいたとしても近所のタワーマンションに住む年収1億円の人たちの中では相対的な貧困になるということです。「うちはベンツも安いやつしか買えないし、子供も公立。旅行だってハワイに年2回くらいしか行けないし、エルメスのバッグだって5つしか持ってない。もうちょっとなんとかならないのか」という感じの悩みを抱えることになるのです。もちろん年収1億の人も年収10億の人たちの中では貧しい自分の立場に苦悩することになります。
 
 そうすると、個人的なレベルで相対的な貧困を解消するにはより平均収入が低い地域に引っ越せばよいということになります。国内でそれが不可能なら海外に移住するという手もあります。昔は日本人がブラジルやハワイに大量移民していたこともありますからあながち無理な話とも言えません。それでも海外に移民するというのはハードルが高いという方には「他人と比較をしない」という生き方もあります。実際の話、日本の場合は住む場所によって極端に治安が悪くなるということもないですし、べらぼうなお金を出さなくてもそこそこおいしいものが食べられます。ある意味、都心の豪邸に住もうが郊外のアパートに住もうがそれほど大きな違いは無いと言えなくもありません。
 
 世の中のほとんどの人は普通の人です。一生懸命頑張っても人並みにやっていくのがやっとで、「なんかスゴイ事」なんかなんにもできません。ぼくも間違いなくそのひとりなのですが、けして負け惜しみだけではなくて「まぁ、それでもいいや」と思っています。しかしその一方で、今の日本における問題は「普通の人がいくらがんばっても人並みになれないケースがけっこうあるってこと」それから「自分はちょっと特別だと思っている普通の人が増えたこと」だとも考えています。
 
 現代のような知識社会においては知的能力が生産手段になると言われていま。残念ながら知的能力は正規分布を描くようなので極端に頭のいい人や極端に頭の悪い人は極端に少なくて、中ぐらいの頭の人が一番多いということになります。頭が良ければ必ずお金を稼げるとか頭が悪いと絶対にお金を稼げないというわけではないと思いますが、知的能力が正規分布する場合、そのボリュームゾーンは約68%になります。日本の就労人口は約670万人ですのでその68%だとだいたい456万人はわりと普通の人ということができます。
 
 知的能力は正規分布を描きますが、収入はこれと全く異なる分布を示します。フランスの経済学者トマ・ピケティは世界の上位10%が76%の富を所有しているという指摘をしていますが、上位になればなるほど所有する富も大きくなっています。ここでいう富とは資産のことですので収入とは違います。日本人の収入でいうと上位10%の67万人で収入全体の約26%をもらっている感じになります。
 
 知的能力が正規分布するということは半分の人間はもう半分の人間よりも頭がいい、ということです。その頭がいい部分をまずは自分のために使う必要があります。自分で自分の面倒を見れる能力を1とするなら10の能力を持つ人は残りの9を自分の家族やちょっとした贅沢に使うことになります。もしも私たちにそれ以上の能力があるならそのうちのいくつかは社会のために使うべきです。100の能力がある人間がそのうち10の能力を社会のために使えば自分で自分の面倒を見る能力が全く無い人間10人を生活させることができます。人間の欲望にはきりがありません。ぶどうを手に入れたらが今度はシャインマスカットが欲しくなりますし、シャインマスカットを10房手に入れた人はシャインマスカット20房を持っている人に嫉妬することになっちゃいますので、適当なところでこのくらいでいいやと考えた方がいいと思います。
 
 優秀な人間が社会の問題を解決する努力を放棄すればキュウリしかもらえないことに腹を立てた集団の破壊的な行動を引き起こします。これは今までの歴史で何度も繰り返されてきた事であり、今現在も世界のいたるところで頻発しています。今まで人間は破滅的なリセットを引き起こした後にすべてを他人のせいにしてやり直すということを何度も何度も繰り返してきました。できれば同じ愚はこの時代を最後にしたいものです。AIにしても核融合にしても量子コンピューターにしてもそれが実現できないならなんの意味もありません。
 
 たとえぼくが手に入れられるのがキュウリだけだとしても、それでやみくもに怒って他人を傷つけたりすべてを他人任せにして誰か何とかしてくれ!とわめきちらすだけではなく、たまにはちょっとだけでもなにか自分にできることがないか考えてみようと思っています。

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