【No.1】孫たちとの写真撮影で起きた珍事の話
プロローグ
結婚する前から旦那さんの実家には遊びに行っていて、義理両親とは結婚式前からすでに仲良くしてた。こんなに気さくで面白い家族が関東にもいるんや(みんなもっとシュッとしとってお笑いはないと思っとった、関西人の勝手なイメージやったけど笑)、と思って感動すらしてた。落語を聞いて育ったという姑は、お上品なザ・関東人って感じやのに冗談を言うのが得意で面白い人だった。お義父さんは、厳格な感じもありつつ、家庭内の存在感が大きい昔ながらの大黒柱的父像で、かといって上から偉そうな態度は取らず若造の話にも冷静に耳を傾ける気持ちの若い人だった。
病気とは無縁でエネルギッシュだったそのお義父さんが、思いがけず病気を患い闘病の末亡くなってしまってから、姑の本性が少しずつ表に出始めた。
何が起こったのか訳わからん!
覚えてる限り、はっきり思い出せる最初の出来事はこうやった。
お義父さん亡き後、孫たち(4人)と写真を撮りたいと、当時フォトグラファーとして活動していた義理妹のスタジオでスタンバイしてた。我が家とその義理妹の子供と4人の孫たちはともにまだ幼稚園以下で、まぁ言うことは聞いてくれないお年頃。「ほら、写真撮るからこっちきてー」って言っても、来る子と来ない子とまぁバラバラで。なかなか撮り始められないまま10分ぐらい経ってたかな。膝の上にすで座ってた孫を雑に放り出して、「ばあばが撮ってって言ってるのに、そんなにやってくれないならもういいわっ!!怒」って怒鳴って捨て台詞を言い放ち、ドタバタ足踏み鳴らしてスタジオのドアをバンっって勢いよく閉めて出て行った。
一瞬何が起こったのか理解できず数秒フリーズしたよね、ほんま。幼稚園以下の子供を捕まえて、私が写真撮りたいのに言うこと聞かへんとへそを曲げ、それこそ幼稚園児かのように物に当たりながら当てつけながら大人気なく部屋を出て行った。子供達の前で。当時まだ若い私は姑の本性がここまでとは知らず、ただただ驚いて理解が追いつかんかった。
いつも「私が中心」のかまってちゃんであることを思い知った今から考えれば、驚かないというか、「また出たよ」ぐらいやけど、小さい子供たちの前でその態度ってまじでどうなん?偉そうによそ様の子供の教育を批判してるくせに。
他人の教育への批判
そうそう思い出した。あるお葬式に出席したとき、遠方の親戚がとんでもない格好の息子を連れてきたと冷ややかに批判してたわ。なんでも中学生以上の大きくなった子供なのに、ヨレヨレのTシャツとズボンに色ありのスニーカーというかなりカジュアルな格好やったらしいんやけど、幼稚園以下の孫たちの前で、言うこと聞いてくれへんからってヘソ曲げてバンバン音立てて不貞腐れて出ていく行為の不謹慎さと、どう違いがあるのか説明してもらいたいもんやわ。っていうか、お葬式でカジュアルな格好は根本的には誰にも迷惑かけてないけど、姑が孫の前で孫に対してブチギレた態度の方がよっぽど迷惑な行為やと思うんやけど?こんなこと面と向かって言ってみぃ、「私はそんなことしてない!」ってシラをきるやろうけどな。
写真撮影の結末
結局この日、義理妹(姑の実娘)が追いかけてご機嫌をとり説得してスタジオに戻って来させ、最終的には写真撮影が完了した。今でも姑の家には、その時の写真があたかも大事な思い出的に飾られてるんやけど、その写真の真ん中で孫たちに囲まれて幸せそうな笑顔で写ってる姑の顔を見ると吐き気を催す。
また義理妹の腕が良いので、それはまぁ美しい光の写真になってて、その裏で起きたただのエネルギー泥棒の腹黒さとの対比がえげつないよね。そこにいた自分以外の全員からエネルギーを奪い自分がしでかしたことなんてさっぱり忘れて何事もなかったかのように、孫たちに囲まれて写るこの写真の自分を見て、「あぁー私って幸せだわ」なんて思ってるのかと思うと(そして実際思っててそう言ってるのを聞いたことがあるので)身震いするほど胸糞悪い(辛辣だし下品な表現やけど、このしんどい気持ちがばっちり表現される単語)。
こういうエネルギー泥棒の本質ってなんやろ?
こうやって、すぐ不貞腐れて暴言吐き捨てて出ていく人、何がそうさせるんやろうと考えた結果、「私を見て!この世で一番なのは私なんだから!」って怒った態度で他者の良心に訴えかけて脅迫しつつ、人に構ってもらうことで自分の価値を見出そうとするエネルギー泥棒。
これ、実はもっと奥が深いと思ってて、もっと言えば、「自分が自分にしてる批判を、他者から構ってもらうことでなかったことにする」というのが本質的な作用ちゃうかなぁと思ってる。これまでの20年、姑の口から出てきた悪口を思い返すと、彼女が重きを置く偏った価値観や批評が存在してて、全てのヒトものをこのフィルターで見てる。ということは、この偏った価値観で自分自身も批評してるはずやから。
こういうエネルギー泥棒の普段の振る舞いはこんな
だから姑は、「私はいい人なのよ」という呪いを自分自身にかけていて、他人の前では気持ち悪いぐらいに丁寧でお品よくやりすぎなぐらいお節介。そうしてないと他者からエネルギー得られないから。「ほら私、あなたのためにやってあげてるでしょ?」っていう。
近い存在の家族には脅迫めいたこと言ってどうにか構ってもらおうとして、お節介や口出し(いくら断ってもやってくるひつこいやつ)は、「自分が助けてる」と言う勲章を得るため。開口一番、「私、具合悪いの」って言って心配してもらおうとするやつもこの類。「心配されてる価値のある私」を確認してるようなやつ。
こういうエネルギー泥棒のなりの末は
根本からくる大きい「愛」からではないお節介は、どこかに無理があり歪みを作り、やがて「思ってたお返しが来ない」と自分が勝手にした(エネルギー泥棒なだけの)お節介の相手を批判し始め、至る所で悪口を言い始めいかに私が正しいかを主張するんだなという分析に至った。
自分自身の中にある穴(自分が自分責めしてできた穴)は、自分自身が起因していて(自分の中の思い込みから生まれて)、埋められるのは自分自身でしかない(その事実と向き合い思い込みを捨て許すことでしか埋まらない)。
姑は、永遠に埋まらない方法で永遠に人からエネルギーを奪い、気持ち悪さに気づいた人々は離れていき、「私こんなにいい人であるよう頑張ってるに!私が何したっていうの!」となかった穴もどんどん空けていくという無限ループを自分で作り上げている。だから、最初の穴よりどんどん大きくなってるはず。
他人は変えられないとわかってはいたけど、家族だからと同居開始から1年間、どうにかこのループから外れる考え方はこうじゃないかと、何かや誰かの悪口を言い出したらお伝えしてきたけどダメやったね。こういうことは、自分で気づいてからじゃないと、自分を変えられへんねんなぁ、やっぱり。自分を変えるって至極難易度が高い人類永遠のテーマやけど、せめて周りからエネルギー奪うような、他人の命の時間と大事なエネルギーを浪費させるような、そんな生き方はしたくないもんやわ。とにかく、周りに当たり散らすなっちゅうねん、ほんま。ただ「腹立つわ〜(怒)」で終わらせないための分析(実際は全然怒りおさまらん!苦笑)。今後の人生に活用できますように(遠い目)。
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