マジレスを探す日々 6月11日(火)日記

9:01
電車の中。
今日は比較的スッキリとした目覚めだった。
でもアラームを早めにセットして、1時間くらい二度寝惰眠するのが癖になってるのはよくない。
キューピーコーワヒーリングを飲むと熟睡できるらしい。試すか迷う。

駅への行きがけにセブイレでアイスコーヒーとパンを買う。
コーヒーの濃さを選べるのだけど、いつも「ふつう」にしてしまう。毎回ちょっと冒険しようと思ってみるのだが手が出ない。
正直あんま分かんないしなコーヒーの味。
そんな好きじゃないけど欲しいっていう、プチ中毒になってる気がする。

昨日、翔ちゃんにあれこれ言っちゃったことに反省している。
「提案よりも肯定をしてほしい」って言ってたのがぐさっときた。またやってしまった…。
しんどい時に前進を勧めるようなことを言ってもしんどいだけ。私もそうだっただろ。
とにかくなーんにもしないで休んでほしい。
なんだかんだやれてしまっている方が危険だと思う。それが常態化したら、しんどいことへの不感症になってしまう。

10:12
会社到着。
電車の中で読んだ、宮崎智之さん『平熱のまま、この世界に熱狂したい』の中で引用されていた、自由に対してのマジレスを思い出す。

また、ひとはよく自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起こるべくして起こっているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞するーーほしいのは、そういう実感だ。

福田恆存『人間・この劇的なるもの』

これを受けて、「自分が誰かや社会にとってかけがえのない存在であり、自分がいなくなると困った事態が生じるという実感がなくては、人間は生きていけないとではないか。」と宮崎さんは言う。

「自由」も、「好きなこと」「やりたいこと」同様、意味が盛られすぎてるシリーズだと思う。
上記は、一見身も蓋もない言い方のように見えるが、マジレスを受け止めるところからしか希望は生まれないんじゃないかと思う。

17:22
電車内。
『平熱のまま、この世界に熱狂したい』の一章を読み終わる。
「do」と「be」の話がおもしろい。

東畑さんによると、なんらかの変化を目指すという目的があるセラピーと違い、ケアは基本的に変化のないサザエさん的な日常を繰り返すものだという。線的な時間と、円環的な時間という違いでも説明され、前者では「する」ことを、後者では「いる」ことを求められる。
言い換えるならば、「do」と「be」とではその性質や流れる時間の感覚が異なるということである。

宮崎智之『平熱のまま、この世界に熱狂したい』

宮崎さんによると、キャンプは「be」の場なのだそう。
準備をしているときは「do」なんだけど、それが終わって焚き火を囲む時間とかは、ただそこに"居る"だけの「be」の時間になる。
私たちにはこの「be」の時間が足りていないのではないか。
日常生活で、何もせずただ居るだけ、ということを、人は怖がっている気がする。
なんか楽しいことをしなければ、自己研鑽をしなければ、と駆り立てられている。
だからキャンプほどの建前がないと「be」をしない。
もっと日々「be」の時間をつくれば、人はせかせか悩まなくなるんじゃないか。

この「do」「be」は、「何者かにならねば」問題にも関係してくる。

つまり「何者か」というのは本来、beの話だったのにもかかわらず、どこまでも目的達成的で、存在そのものを顧みない「実感」に乏しいものになっているがゆえに、焦燥感、空虚感にさいなまれるdo的な時間感覚に終われる状態になってしまっているのではないか、ということだ。そのねじれが、ぼくをより焦らせ、より困惑させる。

宮崎智之『平熱のまま、この世界に熱狂したい』

みんな「do」しすぎなんじゃないか。
いいよそんな「do」しなくて。

今日のおすすめ🌿
昼に食べた、なか卯の冷やし担々麺がうまかった。
白いTシャツで食ったら飛び散りました。ぐへえ。

【ネタバレ注意】『悪は存在しない』を見た

ル・シネマ渋谷宮下に来る。
『悪は存在しない』を見にきた。これもマジレス系な気がして惹かれた。
最近の私はマジレス蒐集家かもしれない。

<鑑賞後>
『悪は存在しない』えらいこっちゃでしたわ。
あのラストは、巧さんは野生と人間の狭間に落ちちゃったのかな。「手負いになると人に襲いかかる」鹿になっちゃったのかな。娘を失うことを察知して心を傷つけた巧さんがパニックになって起こした行動ってこと?
あの殺してる最中、はなちゃんはどうなってたの?鹿に襲い掛かられていたのか、ぼーっと立ってたのは巧さんのみた幻で、実はすでに死んでいた(倒れていた)のか?

それか、この場所は危険だということを知らしめるための生贄として殺した?全て計算…?いやそれはないでしょう。

殺人という絶対悪とされるものを目の当たりにしたのに、殺した理由が分からなすぎてこれを悪だと言えない、でも絶対善とも言えない、ただ殺した、という事実だけが転がって、受け止めきれなかった。

全編通して、人間を動物のように記録映像に残しているような気分にもなった。起こることすべては人間の習性なんだという、研究対象として冷たく見ているような。

ちょっとしばらく解説とか聞かず・見ずに何日か過ごして考えてみよう。

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