無責任社会のこれから②~『(日本人)』を読む(最終回)
権限に比べて責任ばかりが大きすぎる社会は何を生んだのでしょうか。
それは、誰も責任を取ることができない社会→無責任社会を作り上げました。明治維新から始まり、経済成長を重ねた現代にいたるまで築き上げた社会システム「利益を受ける関係者間で上手に分配をするのが仕事」システムはグローバル化に伴い破綻しました。
グローバル化は進めば進むほど、中間層の所得は減り続けています。これからのわたしたちはどのような未来を生きていくことになるのか作者はこのように考えました。
1、電脳空間の評判経済
グローバル資本主義経済は大きな転機を迎えています。作者は「お金と評判」の仕組みをこのように述べています。資本主義は欲望と恐怖によって自己増殖していくシステムです。今の生活水準から貧しくなることは、貧しいままの生活よりもはるかに大きな不幸を招き寄せ、家族崩壊の原因にもなります。そうならないために、ひとびとは恐怖に駆られて競争するのです。
ところが「お金」は限界効用がだんだん減ります。財布の中身が1000円から10000円に増えた、としたら幸福感は大きく増大するでしょう。けれど、そもそも1億円持っている人が10000円増えても幸福感はそれほど増大することはない、という考え方が限界効用です。このようにお金の効用は貧乏なときはものすごく大きいけれど、資産が増えていくにつれてだんだん減っていきます。
それに対して「評判」はどの職業に関係なく一度有名になればもっと有名になりたい!と思うもの。これは、「評判」こそが社会的動物である人間が求める「ほんとうの価値」となりうるからです。わたしたちは仲間から高い評価を受けたり、恋人から愛されたりしたときに大きな幸福を感じます。「お金」はその代替物に過ぎないのです。
けれど、この「お金は評判にかえられない」のは十分お金がある人の場合です。世界の多くの人は生存するために必要なぶんしかお金を持っていません。彼らは家族、仲間、などの共同体以外の評判なんて気にしていませんし、気にする余裕もありません。しかし、少し余裕があれば次は評価を上げたい、と思うのもまた人間という生物なのです。
こうした経済行動の集積が「グローバル資本主義」となって世界を動かしています。その自己増殖は外的な制約があるまでとどまりません。外的な制約とは石油燃料の枯渇や、環境破壊などにより人類が滅亡するときです。地球温暖化やオゾン層の破壊が国際問題になるのも、誰もが「成長の限界」を意識せざるを得ないことだからなのです。
2、関心の変遷
18世紀の産業革命により、経済は爆発的に拡大しました。結果身分制から人々は解放されて、「自由」と「平等」を理想としてあげられるようになりました。第二次大戦後は社会がより豊かになり、人々の関心は「社会」から「わたし」に向かうようになりました。これを「近代の折り返し地点」とニュージャーナリズムの旗手トム・ウルフは言っています。
「折り返し地点」を過ぎた後、「社会を変える」意識から「私を変える」という小さな自己啓発が広まりました。「社会」から「わたし」へという流れは社会が豊かになり多様化したことの必然的な結果です。
身分社会がふつうのものとして存在していたころ、貴族と平民は別の人間だと考えられていました。つまり、不平等が問題になるのは身分の違いのない「平等な社会」だけなのです。貧困に対する態度もおおきく変わりました。失業は階層の問題とされ、階級闘争につながった「社会」から、家庭・教育などの「個人」的なものの収束とされ、「個人」として孤立するようになりました。伝統的なムラ社会の解体は福祉国家の成立が原因でもあります。ゆたかな社会により、リスクは連帯責任から個人が背負うものとなったのです。
この変革は全世界的なものです。ですから、これだけでは日本だけ特別に世俗的な理由になりません。日本だけに変革が起こって失われたもの。ひとつ、大きく上げられるものがあります。それは宗教です。
日本には根本的に宗教がまるでありません。実のところアメリカは宗教国家でほとんどのアメリカ人は天国や地獄を信じています。ほとんどの国はひとびとはごく自然になんらかの「超越者」の存在を前提に生活しています。
江戸時代、人々は神仏の加護を祈り怨霊のたたりを畏れました。これはアニミズムと呼んだほうがいい超自然的なものを畏怖する心であって、絶対神や真理としての法、などではありません。だからこそ、明治政府は現人神として天皇を超越者に仕立て上げることができたのです。そのとき国民は、これが「方便」であることを知っていました。そんな超越者のいない日本が「わたしの価値は最大限に発揮されるべきだ」という社会になるのは至極道理です。
3、無限にループする「わたし」
「わたしらしく」を価値基準とする生き方は「自分」のなかに「自分」を探すことにほかなりません。これを「再帰的近代」と呼びます。それはとても不安定なことなので、この不安定な自分をなんとか安定させる必要が生まれました。これが「自己コントロール」です。現代社会では正しく自己コントロールできない人間は落伍者とされます。この思想はアメリカが発祥ですが「自己分析」は社会の隅々にまで広がっています。自助することは、自分を的確にコントロールするために必要で、自助できるようになって初めて「自分らしい」生き方ができる、というのが公式思想です。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』の中で近代社会の権力は外部にあって私たちを抑圧するのではなく、軍隊や学校、工場や監獄などの規律・訓練を通じてわたしたち自身が権力を内面化し、自分で自分を抑圧しているのだと言っています。そこでは権力は、ひとびとに物理的な暴力を加えるのではなく、より生産的になるよう「生きさせる」。よき市民は学校でよい成績を取り、会社でよい営業成績をあげ、家庭ではよい夫や妻でいられるように「自己をコントロール」するのです。
4、これからの「日本人」が向かう価値観
近代化はひとりひとりが自立した個人になることだと述べました。その一方で人は社会的な動物であり、誰もがなんらかの共同体に属さなければ生きていくことができません。
「自分らしさ」の追求は普遍的価値である以上、「自己実現」は原則的に不可能だとわかっていても、わたしたちはその努力をやめるわけにはいきません。共同体の価値を重視する人びとは「自分らしさ」「自分の価値観」を強調することに社会がばらばらになる、伝統的ではない、と主張しますが、そもそも日本人はずっと共同体に拘束されることをこころの底から嫌っているのですから。
現在「日本人」を論ずるときにふたつの大きな立場があります。ひとつは「日本人は世俗性を抑えて、より伝統を重視すべきだという考え方。これはヨーロッパのキリスト教圏と同じような価値観を目指します。もうひとつは、アメリカなどのアングロサクソンの国々と同様にグローバルスタンダートで社会を運用すべきだという考え方。ただし、これらの国はヨーロッパの国々よりよほど伝統的価値観を重視しています。
このふたつの考え方は明治維新より「日本」を改革するモデルがヨーロッパとアメリカにあったことを踏襲しています。日本人のあこがれは明治からなにひとつ変わっていません。インクルハートの価値観マップで突出して世俗性の高かった日本人ですが、そこに追随しているのは韓国・中国・台湾といった東アジア圏の国々で、これらと同じ儒教価値観を持っている日本人がヨーロッパ価値観やアングロサクソン価値観に変われるはずがないのです。(インクルハートの価値観マップについてはコチラ→)
ですから、この世俗的価値をもった日本人は個人を尊ぶ社会にたどりつくしかないのです。そうすれば戦後日本の繁栄を支えてきたシステムが崩壊しても残骸の中から立ち上がれる力をもつ人々が生まれるのではないえしょうか。(了)
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