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東洋文明に流れる世界観~過去の思想から未来の可能性を展望した『茶の本』~「道」と日本人

作者の岡倉天心は茶道の根本思想を高貴な人も卑賤の民も等しく行う俗事(「茶を飲む」という行為)を芸術に昇華させたところが東洋の精神なのだ、と語りました。その精神とは何なのでしょうか。

1.道(dao)とは

茶の湯を原始的なものから「道」として高めたのは、中国で始まりました。それは唐の時代にさかのぼります。詩人で茶人の陸羽は著作『茶経』において「茶の湯に万物を支配しているものと同じ調和と秩序を発見」しました。宋代には、今に伝わる抹茶が流行し、現在の茶道に近づきました。宋時代に入ると茶は飲むものだけではなくなりました。精神的な調和を考える道教と結びついたからです。道教では茶に対する理想を「道」(dao)に求めました。「道」の考え方で重要なのは、完成ではなく、完成に向ける過程です。そして、茶は風流な遊びから、俗世から離れて真理を追い求める方法になりました。(作者は自性了解、と書いています。)道教では、「おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができる用意なるだろう。全体は常に部分を支配することができる」と説きます。自分を無にしてすべてを受け入れるという考え方は茶の思想としてなくてはならないものになりました。

その後、中国は宋から蒙古族の襲来により元朝に代わり、宋代の遺産はことごとく破壊され、その後漢民族の明朝になりましたが、すぐに満州族の清に支配されて宋代の茶道は衰退してしまうのですが、日本には禅宗を伝えた栄西によって伝えられ、文化すべてに流れる考え方として「道」もまた受け入れられ、さらに日本独自の「道」として進化しました。この宋代に整えられた茶道の知識や考え方は権力者の保護を受け、茶の湯文化は日本で花を開くことになりました。

2.日本の茶の湯

作者ははっきりと「茶道は道教の仮の姿である」と書いています。室町幕府の足利義政は茶の儀式と理想を奨励しました。道教の考え方は日本であらゆるものに影響を及ぼしました。武道でも、芸術でも、すべてです。虚であることで敵の力を出し尽くそうとさせること、描かれないでおくところに暗示をする、見るものはその不完全なところに参加することで完成する機会を得ることができる、といった具合に。すべてのものは「道」に結びつきました。また、禅の精神の誇りが強い点、集中が重要とされる点は「精神がすべてを凌駕する」という考え方とともに大いに受け入れられたのでした。アジアの他国では仏教と禅はしばしば対立し、相反しましたが、日本では道教は仏教と合わせた形で抵抗なく受け入れられました。世俗的なものと精神は日本では並立するのでした。

これは日本はすべてのものを受け入れるときに受け入れやすいように中身を入れ替える習慣をもっているからだと考えられます。たとえば、中国から律令制は受け入れるけれど科挙は受け入れない、などの例がよくいわれますが、宗教も文化も日本に入ってい来るときには日本人にむけて少しマイルドにソフトにガラパゴス化する傾向があります。これは大陸と海を隔てられていることで、すべてがワンクッション置かれるところから生まれていると考えられています。

いずれにしても、人生の些事の中でも偉大を考えるということは禅から生まれました。道教は審美的理想の基礎を与えました。茶道だけでなく日本における文化芸術(華道・書道・香道…)また武道(剣道・柔道…)すべてに影響を与え現在につながる日本人の「精神性の優位」=「道」になりました。

3.清貧の美意識

茶室も禅の考えから建てられたものです。初めて独立した茶室をたてたのは、千宗易(のちの利休)でした。茶室には見たところなんの印象も与えないのが特徴です。それは、日本の一番狭い家よりも狭く、材料も清貧を思わせるものでなければなりません。この簡易清浄の空間はやはり禅の影響で興ったものでした。千利休のような茶人は古歌にその精神を見出しました。

見渡せば花ももみじもなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ

新古今和歌集に収められている藤原定家の歌です。

見渡してみると、春の美しい花も秋の紅葉もここにはないことよ。海辺の苫ぶきの粗末な漁師小屋しか見えない秋の夕暮れよ。という意味です。

藤原定家は平安時代末期から鎌倉時代初期の激動期を生きた人物です。岡倉天心はここに日本人の美意識があると考えました。藤原定家のこの歌は大変技巧的で「満開の桜の花と美しい一面の秋の紅葉」を一回イメージさせ、その上でうらぶれたさみしい水墨画のような風景が思い浮かぶことで秋の夕暮れの少し寂しい感じをよりいっそう想起させるという歌です。仏教の有為転変の説と精神が物質を支配するのだ、という日本的なものの考え方がよく出ています。

当時は西欧のものはすべてよい、とされ、近代化のみが進められていました。古いもの、伝統的なもの、無駄なものだと排除されていました。美術や伝統文化、工芸も、そういった「西欧近代化至上主義」的なものに無価値の烙印を押されていた時代です。岡倉天心は、自己主張の激しい物質主義、美術品の価格で良し悪しを判断する価値観を激しく否定しました。美意識というものは自分の内面を見るにすぎない、それこそが日本人の美意識だと論じました。

茶の湯と同時に発展したのは華道でした。岡倉天心は花を花瓶に生けることは花の美しさを鑑賞することではなく、茶室や、そこにいたる庭、自然と共生することだと説きました。かつてのように茶は茶室で「一服」するものではなく、茶室で得た風流の高い規範によって日常生活を律することがよいとされました。

いにしえの茶人たちにより日本の建築・庭園設計・陶磁の器・織物・絵画・漆器ほとんどすべてのものに影響を与えました。華美であってはいけない、周りの自然と共生しなければいけない…。そのうえ彼らは日本人の処世上にさらに多くの影響を与えました。社会の慣例だけではありません、家庭の整理、配膳、日本食の多くも彼らが創案したものです。彼らの教えで国民の生活の中に茶が入っていくことになりました。なぜなら茶人たちは、心の安定を保つには喜びと美しさを理解せねばならない。美を友として世を送ったひとのみが麗しい往生をすることができるのだ、と考えていたからです。

現在わたしたちが知る「日本的なもの」「伝統的なもの」「詫び寂び」の多くは茶の湯からの発展でした。岡倉天心は、富国強兵で失われそうになっていた「日本的なもの」を復興させるべく奔走しました。失いかけた美意識を今に残すことができているのは岡倉天心のおかげかもしれません。(了)


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