見出し画像

つれづれ!『光る君へ』21回

視聴がつらくて進まない!中関白家推しです。こんにちは。張り切っていきましょう!

定子が髪を切りました。あんなにざくざく切らなくても、ちょっとでも切ったらそれは出家と言われていて、なにも定子がそんな責任取らなくても…というふうなイメージを持つのだけど、(というか小右記には「いやはやとんでもねえことをした」風に書いてあるので)定子のいた邸(二条邸)は伊周と隆家が立てこもり、そのまわりを庶民が取り囲み、あの態度の悪い(というか荒くれものみたいな検非違使が家の中を荒らしてまわり…と正気ではいられなかったよな…生きてて偉いな…ありがとう…と清少納言は思ったでしょう。
伊周がぐずったのはほんとで、二条邸には立てこもるし、そのあと隆家はあっさり任地に行くけれど、伊周は全然行かないし、二条邸からも逃げ出して、出家したふり(これもほんとかどうかわからないけれど、出家した不利説は確かにあった。けどっそのまま逃げて隠れてた説もある。どっちにしてもダメな子すぎます!)
このふたりのきょうだいが自滅したことで、道長は権力を手中に収めることになりました。おまえら、もう少し考えてくれよ!とくに伊周…というのが歴史を後から知った私たちの考え方ですが、同時代に生きていたらそんなことわかりませんしね。伊周がもう少しなんとかなればもしかしたら定子はもう少し幸せだったかもしれない。「調子いいときは面白くていいやつだけど、思いどおりにならないと完全にクズ…」ってけっこういるよね。

なんなら、道長自身だってあんなに長生きするとは思っていなかったでしょうし、妻たちが元気いっぱいに子を産みまくるとも思っていなかったわけで。いろいろ偶然が重なって歴史は動いていくもの。(史実的には道長は体が弱くて、そんな長生きとは一条天皇だって思っていなかった)
これが道隆の死から一年で起こるとは。さすがは道長詮子連合軍といったところ。
そして、二条邸は火事になります。このころ、しょっちゅう火事起こってるんだけど、どういうこと?と思いますよね。
江戸時代のイメージが強すぎて火事を起こすなんてなんて大罪を!と思っちゃいますが、吉原でさえ「遊女が抗議でボヤ起こす」とかあったので、不満を火事で表現、とかはままあることだったのでしょう。

この道隆一家の没落ぶりを見て、浮世を嘆く詮子でしたが、「え?おまえのせいやろ」ってみんな思いましたよね。そして、すべてを察している倫子。倫子が一番怖いわ。
たぶん、道長とまひろのこともバレてますよ!!

そして、中宮のひみつをべらべら暴露するききょうでしたね。ききょうさん、まひろさんは道長殿と通じているのですよ…!
そして、まひろのアイデアで枕草子を書き始める清少納言なのでした。
確かにこの宿下がりの時期に書き進められていたと言われていますが、書き始めたのはもっと前(まだ賑やかなりし中関白家の時代から)ではないかともいわれています。実際、いつどの話がどのタイミングで書かれたかはわからないのですね。こちらも清少納言直筆(たとえば日付付きで)枕草子が残っているわけではないのです。今のようにログはとれないんです。
ふたりが「はるは」「あけぼの」といったところは、史実でないとしてもぐっと!!来ましたよね…!
もう、これが史実でいいので!大丈夫です!!と思っちゃいました。そういうところが史学の人に怒られる点ですけど。

中関白家のこの没落は、道長陣営と伊周陣営の政局で、道長陣営が勝利した、ということは同時代に生きた貴族の誰もが理解していることでした。なので、斉信のように道長陣営に手土産つきで寝返るやつもいれば、高階家の人々のように権力の座からこれでもかと追い落とされる人もいました。多くの人はそれにたいして多く関わることなく、若干同情的にも見ていたようです。詮子が人事をごり押ししていましたが、道長が政権をとれば道長のお友だち人事になるわけですから、それで得をするひとも損をするひともいたわけで。そして、何も関係ない人もいたわけですから。

なので、伊周と隆家の都からの追放は翌年には許されます。呪詛の件は作り話だったということがうすうすみんなわかってたからだともいわれています。(こうなった以上、中関白家が政権とるのはそれこそ疫病でみんななくならないかぎり無理だろうしね。そしたら、戻ってこようがこなかろうが関係ないわけで…)ちなみに伊周は明石のあたりで「病気」を理由に大宰府までいっていませんでした。そんな怖がらなくても…!

菅原道真が怨霊化したのは、道真が大宰府でなくなってからしばらくして関係者がなくなったのを「これもこれもこれも道真の怨霊では」とあとから言い出したもので、だいたい道真の死から30年くらい経っています。それで北野天満宮が出来たそうなので、この時代にはまだ雷が鳴れば「道真のたたりでは?」という人がいてもおかしくなかったかもしれません。(道真は903年になくなっています)930年ころに「怨霊化」したならだいたい70年後のこの時代では「大宰府行ったらそこで都を懐かしんでしんでしまう!」くらい思ってもおかしくないかも?

そして、越前編始まりました!!例の為時の漢詩力でもぎとった越前です。紫式部がなぜ父についていったのか(実際にはまひろの母のほかに妻も子もいる)はわかっていません。そして、なぜ途中で切り上げて先に帰ってきてしまったのかもわかっていません。松原旅館に宋人がいて、その対応を国司としてする必要があり、為時の漢詩で任地替えをした話は都ですっかり有名になっていて、なにせ為時と交換された人はあまりのショックで病気になってそのまま命を落としてしまっていますから!
一応いくつか見たところ、父の世話があるから、と任地に赴き、宣孝を結婚するために帰った、というのが定説のようですね。
そんな紫式部、越前に下るときの歌がこちらになります

「三尾の海に 網引く民の てまもなく 立ち居につけて 都恋しも」
海岸で網を引く漁師たちの姿を見るだけで、もう都がこいしくなってしまう…
という歌です。

そして、山を越える時には紫式部の籠を担ぐ人々の「くたびれた」なあというボヤキに

「知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 よにふる道は からきものぞと」
このひとたちも理解したことでしょう。いつも行き来している塩津山の道も軽く超えられない様に世の中を渡っていくことはつらいのです。

ネガティブ!!何を見ても都を思い出すのでした。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?