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ざっくり魯迅~魯迅を楽しむ基礎知識~その②

こちらの記事の続きです→https://note.com/emofac_kubohiro/n/ncad0629d060f

2帰国した魯迅

7年の留学期間を終えて魯迅は帰国しました。
その頃の中国の状況(まだ清ですけど)についてみていきましょう。
産業革命を経て、世界のあちこちで交易をしていくイギリスやフランス。
清にもやってきました。が、清は当時政府がすべての貿易を管理していました。そうすると、もっと貿易したい!自由にやらせろ!!と自由貿易を求めてくるのが列強各国です。
特にイギリスは清に対する貿易赤字が拡大の一途。茶が欲しい!茶が欲しい!!どんだけ紅茶飲みたいの。イギリス人。
というわけでその解決にアヘンを使った密貿易を始めたのでした。(ひどい)アヘンの蔓延と密貿易。これを解決したいと思わない国家はないわけで、清国はアヘンを燃やしてしまいます。(でしょうね)それがイギリスの勘に触って始まったのがアヘン戦争。(1840年)
それまでは東の大国と思われていた清ですが(なにせ乾隆帝の時にほぼヨーロッパまで領土拡大しておりますからね)戦ってみたら弱かった・・・
というわけで、不平等な条約を結ばれ、領土割譲に至り、どんどん列強各国にいい場所から分割され、割譲されいていく。
挙句の果てに清は東アジアの盟主でもありましたから、朝鮮半島を狙う日本とロシア、東南アジアを狙うヨーロッパ勢にも援軍を出さなきゃいけない立場でもあり、そうこうしているうちに分割されていく・・・(踏んだり蹴ったりです)
これはまずいぞ!祖国をまもらなければ!!と思って始まったのが辛亥革命です。
清から世界のあちこちに留学した超頭いいエリートたちが帰国してきたら、こぞってこれはまずいぞ、と思ったわけですね。
(そうじゃなくてもそう思うでしょうけどね)
結論からいうと辛亥革命によって清朝は倒れて上海で1911年11月孫文が中華民国大総統に就任しました。中華民国は共和制ですよ!
辛亥革命の理念を掲げて中華民国はできます。理念の内容は民族の独立・民権の伸張・民生の安定の三民主義(←民族主義で、民主主義で、民権主義ね)でした。
この場合の民族は漢民族だけではなくて、五族(漢、満州、蒙古、回(ウイグル族とかのイスラム系)蔵(チベット))を合わせて一つの国家論。民権も今のような人権ではなく「人権より国益」ってやつで、民生主義も今の民主主義じゃなくって土地所有での貧富の差を是正するという「私より公」ってやつですよ。
っていうこの三民主義は全く実現しなかった。アメリカ留学帰りの孫文から軍閥、袁世凱に政権はうつって、袁世凱は皇帝になりたがるし、孫文はアメリカかぶれだし、ほんと、ぐだぐだになってしまいます。

で、魯迅は帰国してから、中学校の先生をしていたんですけど、中華民国が出来たときに招かれて南京にあった中華民国政府の教育部に行くことになりました。
新しい政権下で共和制の新しい国造りが始まって、三民主義の教育をするんだ!と思ったら袁世凱に変わって国の中心も南京から北京になるし、日本は不平等な条約二十一か条の条約をせまるし、袁世凱がなくなってから、各地の軍閥がそれぞれ列強各国と組んで「とりあえず、国とかどうでもいいから自分たちの利益を確定させていく」という形で国が崩れていくのを目の当たりにするわけです。つらい。なんだろうね。この亡国感。
魯迅には弟がいて、弟は周作人という人で、この人もとっても優秀で北京大学の教授になっていました。
弟とは一緒に日本で出版活動なんかもしてたんですけど、こういう進歩的な知識人と知己を得て、雑誌『新青年』にも参加していきます。
『新青年』は日本の雑誌『白樺』に影響を受けていて、ここで白話文学(口語体)が始まります。魯迅はこの活動に参加して作家としての才能を開花させていくのですね!

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