見出し画像

可哀想という「同情」の刑

結婚してこどもがいて夫婦が円満で。
そういう幸せ以外だと「可哀想」という
同情の目にさらされるのは何故か。

離婚してまだ時間も経っていませんが、
「可哀想」な目で見られることの痛さは、
実際より苦しい気がしてなりません。

大変になることがわかってるから…というなら、学生が実家から一人暮らしする時に可哀想と言うでしょうか?

ーーー

まだ赤ちゃんだった息子を抱っこして
バスに乗った時の話。

隣に乗り合わせたお婆さんが
心を込めて話してくれたことは、

高齢の子育てはこどもが可哀想、
兄弟がいない子は可哀想という内容だった。

その時は、もれなくイライラしてしまったけれど
今思い返せば、世代の感覚っていうものがあり
それは仕方のないことかもしれません。

その人の信念、その人の正義は
尊重するに値する。
但し、それは世界共通のものではない。

自分はどうなのか。誰かの価値観ではなく。
私はこれでいい。
それがあれば「可哀想」に惑わされずに済む。

ーーー

変化を恐れず変わってゆく。

成長とは、変わること。

そんな風に思える風潮があってほしいな。

幸福っていうのは、
条件のもとで決まるものではないと、
私は思う。

ビジネスが成功したから幸せ。

結婚して子どもがいるから幸せ。

ほんとに?

朝外に出たら、陽の光が草に映えて
空気が澄んでいたから幸せ… じゃない?

久しぶりに食べたいと思っていた
大好きなあんかけ焼きそばを
一口くちに入れたから幸せ… でしょう?

誰かと会って、なんとなくほっこりした
話をしたり。

悩みがあっても、お金に困っても、
"幸せ"というのはいつも存在している。

だから自分の生き方を誇りに思えばいい。
過去も未来もなく
ただ今、手の中にある幸福だけを眺めて。

他の誰かを黙らせるくらい
満面の笑みを浮かべたら

きっと人生は笑い返してくれるだろう。

エール