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「『後藤明生文学講義CDを聴く』というイベント」について(4)

話がなかなか前に進みませんが、芥川賞四回落選にたいする後藤明生氏の弁明や関係者による貴重な証言についても触れておきたいと思います。

文学が変るとき
芥川賞四回落選のエピソードは「文学が変るとき」というエッセイに出てきますか、明生氏が「読んでただくたびれただけであった」という選評を思い出したのは、芥川賞六回落選の(阿部昭氏と)タイ記録を持つ島田雅彦氏の長篇『天国が降ってくる』、エッセイ「芥川賞落選御礼日記」(「新潮45」12月号)、「文体崇拝者の死」(「海燕」1月号)、「『多文体主義』宣言」(「読売新聞」昭和60年12月12日夕刊)などを読んだためで、

何回目のときだか忘れたが、こりゃあ芥川賞は当分ムリだな、と思った。わたしの小説を読んで「ただくたびれただけ」の長老の小説観が、とつぜん変るとは考えられない。かといって、こちらの小説を長老の目や口に合わせることも出来ないからである。しかしわたしは、島田氏のように勇敢には書かなかった。ただ、長老宅に総入歯と天眼鏡のお化けを送り届けてやりたい、と思っただけである。これは、正真正銘これが初公開の告白である。

「文学が変るとき」(「(2)文学が変るとき」)「新潮」1985.2

日本現代文学の「衰弱」は、分裂、解体した自己意識をいかに書くか、その方法の貧困による。それは自己喜劇化という近代小説の原理の誤解にはじまる。そしてその「誤解」があたかも「主流」のごとくに錯覚されて来たためである。

「文学が変るとき」(「(3)何が「衰弱」したのか」)「新潮」1985.3

「千円札文学論」

僕の場合、さっきの「千円札文学論」ですが、それを使って小説というものをいろんな意味で千円札にたとえているのです。
一つは、読むことと書くことは裏表だ。もう一つは、素材と方法、あるいはテーマとスタイルは裏表だ。だから、読む書くの方でいうと、読まないで小説を書くことはあり得ない。小説を読まないで小説を書いた人はいないんじゃないかということです。これを証明してみせるというか、文学史的にはっきりさせる。 

「文学教育の現場から」1992年(三浦清宏氏との対談、
『アミダクジ式ゴトウメイセイ【対談編】』つかだま書房2017.5.25)

とあり、坪内祐三氏の「『千円札文学論』の実践」には、次のようにも書かれています。

「千円札文学論」の実践

あとから振り返るとそれが時代の変わり目だったなとわかる時がある。
文学史上でもそれがあてはまる。
そして日本文学史で言えばその一つが一九九九年夏だった。
芥川龍之介や三島由紀夫の自殺は世の中に大きな衝撃を与え、文学の世界もそれをきっかけに変化していった。
さて一九九九年夏に自殺していった文学者 といえば江藤淳だ。
私は江藤淳の自殺そのものを日本文学史的に大きくは見ない。
だがそれに続く辻邦生と後藤明生の死と合わさるとそれが「時代の変り目だった」ことがわかるのだ。
近代日本(ここでのそれを小説しかも純文学に絞らせてもらう)は大きく分けて二つの系統に分かれる。
私小説系とアンチ私小説系とである。
自然主義の誤解によってはじまった(と言われている)私小説は長らく日本の純文学の主流にあった。
それに異をとなえたのはヨーロッパ流の本格派小説、社会性を持った市民生活小説を目指す作家たちが次々と登場して行った。
その本格派小説や市民生活小説がいちおうの成熟を見せたのが一九七〇年代に入ってだ(その最初の年に三島は自死したわけだ。)
例えば先日亡くなった丸谷才一がその代表挌で他に小川国夫や辻邦生がいた。
それらの作家たちのことを〝フォニィ〟と呼んで激しく批判したのが江藤淳だった。
江藤淳は中上健次や車谷長吉ら私小説の作家たちの擁護者として知られていた。
つまり一九七〇年代まで日本の純文学世界の中で私小説とアンチ私小説の闘いは続いていたのだ。
だが一九八〇年代が近づくとその二項対立とは別の、すなわち第三項の作家たちが登場してきたのだ。
しかも新人ではなくキャリアをつんだ人たちの中から。
例えば小島信夫、田中小実昌、そして後藤明生だ。
この三人の作家は一九八〇年代から二十世紀末にかけて(小島は二十一世紀に至っても)小説という表現形式の可能性と格闘していった。その格闘の記録きちんと検証しておきたいと思っていた。
その第一弾が『群像』に連載ののちに単行本になった「『別れる理由』が気になって」だが、第二弾は後藤明生だと考えていた。

坪内祐三「『千円札小説論』の実践(『この人を見よ』後藤明生)」(『群像』2012.12)
 
坪内祐三「『千円札小説論』の実践」(『群像』2012.12)

また、坪内氏は、

先に私は「後藤氏の身辺が多忙になって」と書いたが、『海燕』でこの連載を始める前年(一九八九年)、後藤氏は近畿大学文芸学部教授となり東京—大阪間を新幹線で往復する日常になる。 そして九三年四月には同学部の学部 長に就任し、さらに九四年四月には同大学大学院文学研究科長に就任する。まきに「身辺」「多忙」となる。最後に「この人を見よ」が『海燕』に掲載されたのは同誌九三年四月号だ。

(同上)

と述べています。また、以下のHPには、近大で奮闘する後藤明生氏の姿が描かれていました。

近大で教えるようになって1年、後藤さんは住まいを大阪市に移し、平成5年/1993年春からは同学部長に就任。大学院に文芸学研究科を開設するために全力を尽くし、平成6年/1994年春にはその研究科長の肩書きも加わります。ガチガチの本腰です。
(中略)
ただ、後藤さんには「文学は教えることができる」という信念がありました。文学の原理原則を、自分の培ってきた文学観に照らして講義やゼミを重ねます。根本にあったのが、後藤さんが「千円札文学論」と呼んでいるものです。

そして、後藤明生氏の自身による文学史観は、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 」で解説されています。
(後藤明生『小説は何処から来たか』第十五章ジャンルと形式の起源Ⅰ、第十六章ジャンルと形式の起源Ⅱとほぼ同じ内容ですが、若干の差異があります。)


『小説は何処から来たか』白地社1995.7.15

そして、島田雅彦氏は、

近畿大学の特任助教授の職は二〇〇二年度で辞することにした。 大阪の思い出は無数にあるが、常に脳裏をよぎるのは、私を大阪に呼んだ後藤明生の声と、当時の京都の遊び相手、平野啓一郎の顔である。
後藤明生の訃報に接したのは一九九九年だったが、私の意識の中ではその後もしばらく生きていた。あのしわがれた笑い声、たばこのヤニだらけの歯、眼鏡の奥の抽象的な目が、消せない残像となっており、路地や居酒屋の一角に現れそうな気がしてならなかった。 『挟み撃ち』以来、後藤さんは性懲りもなく、ゴーゴリの『外套』や『鼻』に登場する下級役人た ちのペテルブルグ徘徊を繰り返しなぞっていたが、晩年はもっぱら大阪をほっつき歩いていた。私は後藤さんが好んで長居した居酒屋を教え子たちと訪れるだけでなく、難波や俊徳道、大阪城界隈に残した足跡を辿っていた。最晩年は病室から出られなかったが、亡くなる直前に奥さんに車椅子で病院の庭に出ることを望んだという。散歩の足を失った後藤さんの代わりにほっつき歩くことが供養になるかどうかは知らないが、墓参りをするのと同じ意味はあるかと思われた。私は後藤さんの没後三年間、近畿大学に通い続けたが、無意識に晩年の後藤明生の足跡を追いかけ、彼の供養をしていたことになる。
布施や鶴橋の場末のスナックにもよく出入りした。元ヤンキーのママさんやパチンコの話しかしない高校中退のホステスを相手に、後藤さんがよくしていたような与太話をしている。
「暇持て余してます?」といわれ、実際、大阪ではもうやることがなくなったかもしれないと思った。 二週に一度、東大阪に通い始めた頃は、学生も院生も粒揃いだった。ちょうど、ベビーブ ーマー・ジュニアが大学生になった頃で、過当競争の結果、近畿大学のレベルも上がっていたこともあるが、後藤さんの大胆なスカウトにより、 文芸学部には柄谷行人、渡部直己、奥泉光という強力な布陣が敷かれていたので、大学院に優れた人材が集結していた。 市川、江南、倉数、中沢 、中野といった面々がいた頃が黄金時代だったかもしれないが、それは長続せず、次第に学部生たちの幼さが目立つようになってきた。

「思秋期の只中で」(島田雅彦『時々、慈父になる。』p.159、集英社2023.5.30)
島田雅彦『時々、慈父になる。』

(続く)

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