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「『後藤明生文学講義CDを聴く』というイベント」について(5)

後藤明生氏の近畿大学における活躍については、遺稿集『日本近代文学との戦い』(2004.4.30)の、乾口達司氏による「あとがきに代えて」、「略年譜」並びに東條慎生氏の『後藤明生の夢』にも詳述されていました。又、前回記事に対し、X(Twitter)にて倉数茂氏より貴重な証言を賜りました。後藤氏が近畿大学文芸学部教授に就任したのは、1989年4月とのことですが、その頃、多忙だった私は、遠くから近大HPを眺めるのみだったと思います。
後藤明生氏を亡くした人たちのそれぞれの感想、評価を振り返り、語り継いでいきたいと思います。

『群像』1999年10月号の後藤明生追悼特集より

後藤明生がいなくなってしまった—その感慨を噛み締めつつ、先に触れた座談会の翌年から刊行された新鋭作家叢書(河出書房新社)の「後藤明生集」を取り出した。この叢書は各巻末に作者のエッセイが収められている。「散文の問題」とタイトルのつけられたその文章を読み返し、北朝鮮の引揚げ者であった後藤氏の言語体験の振幅と特異さにあらためて思いを巡らした。
後藤氏の作品を、小説を壊す営みとして評価する声がある。それをいうなら、むしろ彼は小説そのものが壊れてしまった場所からこそ出発したのだ、と捉えるべきではなかろうか。作品にある晦渋や混濁や饒舌は、形を持てぬ小説への模索の分泌物であり、それこそが後藤明生の作品に他ならぬのだ、と受け止めるべきではないのか。

「三十年」黒井千次
新鋭作家叢書「後藤明生集」(河出書房新社1972.5.25)

『挾み撃ち』を読んだとき私が頁の余白にかきつけてあること。「後藤明生。エビガニの姿勢。後ろむきのカイギャク。カレは何度待ち合わせても時間通り来たためしがない。(中略)彼は遅れることがたのしい。まちがうことがたのしい。そこに言い知れぬ哀しさを味わうのが、たのしい。」私はこういうメモをしておいて、当時、戦後二十年の日本を書いたこの作家に共感したのである。

「思い出す事」坂上弘
『挾み撃ち』(河出書房新社1973.10.30)

先人に習ったところで、何も始まらない。とそこから、後藤さんの小説は始まる。さらに習ってもそのままでは何も始まらないことを、そのことを習うために、先人の作品を多読する。大いに論ずる。ここにもパラドクスの、陽気なメランコリーがある。名前とは、人の心情にとって、何と言っても、意味の最たるものを感じられるものなのだ。
(中略)
ここはどこか、いまはいつか、それを訝るところから、後藤さんの闊達な語りは始まる。その後藤さんに、敗戦の年、中学一年生の十月に、一家を挙げて北朝鮮の元山から三十八度線を徒歩で越えて引き揚て来た体験を中心とした短編集がある。流亡中に父上と祖母上を亡くして花山里郊外の丘墓に葬ってきた。重い運命を内に抱えた作品たちだが、その中にあらわれるどの土地もどの風景も、地へ深く根を降ろしなから立ち上がり、それぞれにかけがえのない名を響かせる。
なんと羨ましい作品だろうか。しかしこれらの短編に後藤さんは、「夢かたり」という表題をつけた。

「橋上明生」古井由吉
『夢かたり』(中央公論社1976.3.25)

近代文学は、根本的に、『地下室生活者の手記』の第一部、いいかえれば「円」の中にある。後藤明生は、そこから出る鍵を第二部、つまり「楕円」に見出した。別の言葉でいえば、「見る—見られる」関係ではなく、「笑う—笑われる」関係に見出した。そして、この「問い」のラディカルさが、彼を思いもよらなかった方向に推し進めたのである。(中略)晩年の後藤明生はまさに彼のいう「超ジャンル」を実践していた。それは、文学的諸ジャンルを超えることなどではない。文学という「円」を出ることであった。

「笑い地獄」柄谷行人
『笑い地獄』(文藝春秋1969.9.30)

「ストーヴ」について、仕様説明の文章というより、素っ気ない客観的な説明を引用して作文を書いた後藤少年は、のちに、なぜ小説を書くかという問いに、小説を読んだからだと答えることになり通俗的な評伝風に書けば、「しかしこの素っ気なく書き写された(中略)ストーヴこそは、後の後藤明生の小説のまさしく核であり、石炭を効率良く燃やしてストーヴの持つ機能を果すのではなく、いわば、彼の小説に登場する特有な異物、、として、外套、吉野大夫の墓、将門の首塚、俊徳の墓へと変貌するのである」ということになるのであるが、もちろん、これは本当のことで、後藤さんの小説には、幾つものグロテスクで滑稽で読者をとまどわせる変身する「ストーヴ」があらわれる。

「『ストーヴ』な死」金井美恵子
『吉野大夫』(平凡社1981.2.20)
『首塚の上のアドバルーン』(講談社1989.2.28)
『しんとく問答』(講談社1995.10.16)

—酒が飲み足らなかったんじゃないかな。
酒場に泊まっているかの如き後藤氏の長っ尻を知っている私は、それはないでしょう、といったが、古井氏の方はまだ飲み足らないご様子で、寂しそうだった。人は死後に独自の進化を遂げる、とカフカはメモに書きつけていた。死者を進化させるのは生き残った私たちで、なぜか私たちは皆、死者を前に多弁になる。自分の死に方を考えたり死者を借りて自分を語るのも弔いの手法なら、後藤氏を弔うに、終わりのないお喋りと笑こそがふさわしく思える。私たちはこれから時間をかけて、後藤氏の沈黙に慣れなければならない。それはきわめて不自然な事態なのだけれども。

「後藤明生をどう弔うか」島田雅彦
『群像』1999年10月号(後藤明生追悼特集)

(続く)

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