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「『後藤明生文学講義CDを聴く』というイベント」について(2)

機械書房への道順

さて、イベント会場の機械書房さん(三洋ビル36号室)ですが、最寄駅は都営三田線水道橋駅。A6出口から南へ向かい、スポーツショップ(写真のカラオケ店)とスズキアリーナとの間の道を左折し、ゆるい坂道を約100m上った右側にあります。

機械書房さんの最寄り駅、都営三田線水道橋駅A6出口
三洋ビルは、スポーツショップとスズキアリーナとの間の坂道を約100m上った右側
こちらは、坂の上側からみた三洋ビルの外観
(自動販売機の横が入口です。)

三洋ビルにはエレベーターは無く、旧い建物の階段を上り、さ迷い歩く廊下はまるで迷路のようで、『審判』のヨーゼフKのように「指物師のランツさんは住んでいませんか*」などと言って、扉を開いたりしてみたくなりました。

三洋ビルの三階にある機械書房さんは、この廊下の突き当りの
左側(306号室)で、マガジンラックが目印です。

会場準備

会場にはかなり早く着いたのですが、機械書房の岸波さんがとお話をしたり、コーヒーをご馳走になったりしていると、主催者のアーリーバードブックスさんも到着し、三人で会場準備を行いました。

機械書房さんの室内
正面にCDプレーヤー、真中のテーブルには後藤明生関連の書籍・生原稿等を配置

主催者も含め7名の参加者は、twitter上ではお馴染みの人ばかりでしたが、5名の方はリアルでお会いしたのは初めてで、テーブルを囲んで文学講義CDを聴くイベントは、実際に講義を受けているような、新鮮でもあり、貴重な体験でした。

開催に当たって

イベントの開催に当たり、アーリーバードブックスさんより、文学講義CDの概要説明が行われました。又、聴講中に掲示されたフリップは、内容理解の一助となり、非常に良かったと思います。
今回のイベントは時間の都合上、前編のみでしたが、後編も非常に面白いので、是非、聴いて頂きたいと思います。又、本来なら、ここで感想なり要約を述べるべきですが、それほど深く理解できた訳でもなく、又、後藤明生氏の著作との関連もあり、次回以降の課題としたいと思います。

講義の後に

講義の後、皆さんの感想を聞いて、なるほどと感心したり、感動していたら、とつぜん順番が回って来て、慌てて「内容は難しいかったけれど明生氏の饒舌ぶりは凄かった」とか「後編も是非聴いて欲しい」とか言ったような気がしますが、皆さんも、関心を持って頂けたようで、嬉しかったです。

『富士日記』と「形見の椅子」について

又、フリートークでは武田百合子さんの『富士日記』に後藤明生の名が出て来るとか、泰淳さんの「形見の椅子」に関する話題も聴くことが出来ました。
『富士日記』で、後藤明生氏が出て来る場面は、中公文庫版下巻で、昭和五十一年九月九月六日(月)の日記に、「帰ってきて、後藤明生「夢かたり」と「鼻」を読む。主人ねころんで眼をつぶってきく。」とあります。

武田百合子『富士日記』(中公文庫版全三巻)

武田泰淳氏の『司馬遷—史記の世界』を読み、「楕円ショック」を体験し、文学を志した後藤明生氏を泰淳氏がずっと見守ってくれていたような、心温まるエピソードですが、さらに、後藤明生氏の「形見の椅子」というエッセイでは、

わたしは武田泰淳の遺品の椅子を持っている。武田さんが亡くなったのは昭和五十一年であるが、その翌年の夏だったと思う。追分の山小屋に百合子夫人からとつぜん電話があり、武田さんが富士山麓の山荘で愛用していた椅子を、形見に下さるという。
わたしはおどろいた。そんなものを頂戴できるとは、それこそ夢にも思わなかったのである。
(中略)
武田さんの遺品の椅子は、小型トラックでわが山小屋に運ばれて来た。中国製の陶器の椅子で、楕円の両端を切り落とした形をしている。暗緑色で、黒い小さな模様が混じっている。わたしはそれを「泰淳さんの椅子」と呼ぶことにした。以来毎年、夏の間わが山小屋の庭に据えられている。最も涼しいイチイの木陰である。
わたしはそれに腰をおろし、ビールのコップを手にした泰淳さんの顔を思い出す。東公園の松林の中の、小さな木造図書館を思い出すこともある。泰淳さんの椅子は、わが宝物である。

「形見の椅子」(「客地にて」西日本新聞1987.2.16-4.24、『もう一つの目』p.269)

とありました。

『もう一つの目〈エッセイ集〉』(文藝春秋1988.3.30)

武田泰淳さんが亡くなったのは昭和五十一年(1976)十月五日ですが、日記は九月二十一日まで書き続けられていて、そこには、

…花子と私相手に「かんビールをポンと……」をくり返し、手つきをし、ねだる。ダメというと「それでは、つめたいおつゆを下さい」と言う。花子「ずるいわねえ。それもやっぱりかんビールのことよ」と笑う。それからまた「かんビールを下さい。別に怪しい者ではございません」と、おかしそうに笑い乍ら言う。私と花子が笑うと、するとまた一緒になって笑う。

武田百合子『富士日記(下)』(中公文庫版p.347)

とあります。
又、形見の椅子は、後藤明生氏が『吉野大夫』を季刊文芸誌「文体」に連載し始める約一年前に書かれた「アカシヤの木の下で」というエッセイにも再登場していました。

一昨年わたしは追分に取材した短編を十ばかり集めた『笑坂』という作品集を出したが、吉野太夫という遊女にも興味を抱くようになった。
(中略)
いまは追分も夏の真盛りで、アカシヤの花はもちろん跡形もない。私の小さな山小屋を覆う数本のアカシヤは、いまや葉ばかりで、大きな傘のようだ。その下に椅子を出して腰をおろし、わたしは自分が小説に書こうとしている吉野太夫を、ときどき空想している。ただし、まだ一行も書いていない。

「アカシヤの木の下で 」(サンケイ新聞 1978.8.12、『針の穴から』所収)

話がずいぶん脱線しましたが、これも後藤明生流ということで、文学講義に関連する事項は、次回以降に書きたいと思います。

最後に、皆で会場を本来のレイアウトに戻したり、本を眺めたり、買ったり出来たのも大変貴重な体験でした。

(追記)
カフカの『審判』を読み返してみたら、「第二章 最初の審理」に、

二階に来て、いよいよ本当の部屋探しが始まった。審理委員会はどこですか、ときくわけにもいかないので、指物師さしものしのランツという名前を考え出し(中略)ここに指物師のランツという人が住んでいませんか、とどの部屋にもきいてまわり、部屋のなかをのぞきこむことができるようにしようと思った。

原田義人訳『審判』(「新潮文庫」1971.7.30、p.53)

とありました。

(続く)





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