見出し画像

繰り返し夜を吐き出す僕でさえその眩しさを夢にみるのさ


AOAO SAPPOROの1ヶ月パスを買った。
3000円で1ヶ月昼夜問わずAOAO SAPPOROに出入り自由だ。
AOAO SAPPOROにはコワーキングスペースがあり、ここで仕事をすることができる。
残念ながら私は会社のハイスペックBIM機に縛り付けられているため、モバイルパソコンを貸与されていない上に社外で優雅にテレワークなんていうご身分では無いので、ゴールデンウィーク中に普段は自宅の作業部屋(祖父母が住んでいた自宅1Fスペースは普段誰も使っていないので勝手にそこで作業しているだけだが)でやっているようなnoteを書いたりだとか、絵を描いたりだとか、そういうことをやろうという試みである。
魚も見れるし。Wi-Fiあるし。何時間でも居れるし(迷惑客)
まぁ、フードコートでもないし、GW期間中利用しているような人はほぼいないし。カラオケとかと違って時間制限もないし。学校ないし家庭もないしヒマじゃないしカーテンもないし(唐突な電気グルーヴ)

そんなわけで4月の短歌まとめだ。
4月はあんまり短歌できなかったなー
気圧低くてなんもやる気しなくて。。。
そんなのは言い訳に過ぎないが。
別にノルマがあるわけでもないし、無理矢理作るものでもないし。
数が多くなくても続けていくことの方が大事だと思う。


人間は極めていとも簡単にメロメロになるほんとダメです

我ながらクソみたいな短歌だ。


地下鉄の壁に貼られた蝶の絵は春の陽射しを知らないままだ

三岸好太郎美術館の企画展のポスターが地下鉄に貼られていて、今度のやつが詩人の安西冬衛との共通点としての「蝶」をテーマに行われるらしく、そのポスターに引用されていた

私は蝶をピンで壁に留めました―もう動けない。幸福もこのやうに。

安西冬衛「再び誕生日」より「詩と詩論」第一冊1928年

正直、安西冬衛のことは全然知らなかったのだが、この一節がめちゃめちゃ刺さってしまった。

幸福を標本箱の蝶のようにピン留めしておきたい感覚。
或いは幸福という針によって自らがピン留めされて動けなくなってしまう感覚。

前後の文脈がどうなっているのかわからないので、本当にこうした解釈が合っているのか不明だが。

他に有名なものとしては

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

安西冬衛 詩集「軍艦茉莉」1929年

というものがあり、なんか当時は「こんなもん詩じゃねぇよ!」と酷評されたらしい。そうなのか、、、
個人的に蝶のイメージが好きなので、短歌にも使ってみたくはなる。

蝶と蛾の違いについての話というのはしばしば出てくるものだが、結構もんやりしていて蝶の特徴でも蛾に分類されるものもいたり、フランスやドイツでは蝶と蛾は区別しないそうだ。 

クローンのソメイヨシノは根を伸ばす。ブラウザ上のタイムラインに

桜の時期になると、SNSには桜の写真がたくさん上がる。
ソメイヨシノが1つの株からのクローン個体であるというのは有名な話だが、写真という複製によってインターネットにも根を伸ばしていると考えるとめちゃめちゃSFだなと。サイバーパンク。


生活を経て消えていく輪郭をどうにか繋ぎ留めるメロディ

不確かな私を私たらしめるものさえ他の誰かの言葉

先日、水曜日が消えたのノベライズ本を読んだのだが、あれって自己はどこに存在するのか。私を私たらしめるものとは何か。みたいな話で、結局外的な要因によって自己の存在を認識しているのだということを思うと、ますます訳がわからなくなってくる。

私は音楽を聴くのが好きで、音楽を聴いているときは自分が自分でいられるなぁなどと思っているけれど、私自身は音楽を作っているわけでもなく、それは他の誰かが生み出したもので、私が大切にしている言葉やメロディは他人から出てきたものなわけで、それなら私ってなんなんだろうと。
逆に、音というのは間を通る媒質がなければ存在できない。
真空では無音になる。
そう考えると、いわば自分は音が通り抜けて行く媒質のようなものではないかと。
音が響けばそこに波形が作られて、それが輪郭を成している。
音楽に限らずだけれど、良くも悪くも外的な要因によるものでようやく自分という輪郭が見えてくるという事実が音楽を聴いたり、本を読んだりすることで得られる自己なのかもしれない。

幸福に嫌われたままいつまでも痛みの底で夢をみていた

これも卵が先か鶏が先かみたいな話なんだけど、私が好きな音楽は割と生きていく中で生じるどうしようもなさやつらさや痛みを歌っているものが非常に多く、それなりに生きづらいからそういう音楽が響いてしまうというのがあって、例えば自分が幸福になったとき、そうした音楽や言葉が自分の中に響かなくなってしまったら。ということをしばしば考える。
まぁ、こんなんだから生きているうちに幸福がずっと続くわけもなく、生きやすさを獲得できるわけでもないので、それは杞憂というやつだが。
人は誰しもが幸せを求めるものだと思うが(ここでいう「幸せ」は決して定型に嵌るものではない)、満たされれば全てが空虚になったり、あらゆる意味がなくなってしまったりするのではないかと。
生きることに意味なんて求めるのはおそらく人間ぐらいしかいないのだろうけど、それこそが不幸なプログラムだなと思う。
一生痛みの底で醒めない夢を見続けていく夢遊病者なのだ人間は、、、

この世には存在しない人に向け送り続ける手紙のように

白昼夢の中を走るモノレール駅もなければ終点もない

「死ねよブス!」口に出さない寛大で慈悲に溢れたやさしいわたし

めちゃめちゃ嫌いな人がいて、もういなくなったのでどうでもいいのだが、嫌いな人のことなんて無理に好きになる必要なんかないと思ってて、でも、本人に「死ねよブス!」と言わない程度の建前というか社会性というか、そういうのはどうしても必要になる。
でも、向こうに悪意もなくて、自分の振る舞いが他人に殺意を抱かせるほどに不快であるという自覚がない人間に対してなんで私がずっと我慢しなきゃならないんだという思いはずっとあって、悪意がなければ自覚がなければいいのか⁉︎と思ったが、自覚がないから一生改善しないし注意したら私が神経質な人間みたいになるし、あぁいうタイプの人間とは関わらないのが一番いい。
この世は地獄です。

平日に仮死状態の心身をただただ運ぶ終末世界

ガソリンの燃えた匂いと烟る雨、巻き戻されていく温度計

水深2000mに沈みゆく電話ボックスの通話記録

繰り返し夜を吐き出す僕でさえその眩しさを夢にみるのさ

今月の表題短歌。
先月の表題短歌ともテーマは近いのだが、私のようなドブの底を這うようなメンタルの人間でもキラキラした眩しいものには憧れちゃうよな。っていう歌。

排水の成されていない噴水が街を沈める15秒前

革靴の群れが流れる暗渠にて裸足のままで立ち尽くしてた

午後三時過ぎの頭上で吹く風があやとりをする架空電線

壁を這う絵画に覆い尽くされた誰も知らないビルの裏側

どうでもいい感情なんかよりも、都市の中を幻視する感覚っていうのは、短歌に常に落とし込みたいと思っていて、数は少ないけど今月の短歌にはそういう傾向が結構出たかもしれない。

今、南米のコルタサルという作家の短編集を読んでいるのだが、この人の書く話には幻視の感覚や視点がどこにあるのかわからなくなるような輪郭の曖昧さが内包されている。まぁ、深く読み込んでいるわけではないので、私がコルタサルの何を分かった気でいるのかという話などが、、、

幻視:実際にはないものが、あたかもあるように見えること

別におばけが見えるとかではないのだが、実際のものよりも拡張されて何かを認識するということはしばしばあって、はっきりと何かが「見える」とかではなく、本当に感覚でしかない。
ちょっとこういうのは気持ち悪いので人にはあんまり話さないのだが、そういうのは割とずっと抱えていて、おおよそそうした脳の動きになる原因もわかる。
中学生ぐらいの時期本当に生きているのがつらすぎて、防衛本能として極端に人間以外のものばかりに意識が向くようになり、そこに対しても過剰に受容するようになったというか。
全然上手く説明できないけど「路傍の花がきれい」という感覚が2.5倍ぐらいになるというか。
まぁ、専門的に調べたわけでもないのでこれがどういうものなのかとか別にどうでもいいし治すとかいうものでもないので「あーキラキラしてんな」ぐらいのもんでしかない。感受性が豊かなんですね!で済まされることなのかもしれない。

幻視、からの言語化して落とし込むのが詩の詩たるところだと思うので、そこら辺はもっと上手くやれたらいいのにと思う

古着屋のバンドTシャツコーナーの山になかったソニックユース

古着屋のバンドTのメタル率とニルヴァーナ率の高さよ。
GooのジャケットのTシャツ、オーバーサイズのやつが着たいんだけど、なかなか売ってないんだよな。BEAMSが出したときに買っときゃよかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?