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シベリア

暗い部屋にテレビだけが点いていた。
画面には遠い外国の風景が映しだされている。
どこまでも続く永久凍土と針葉樹林。

「なんかさ」
僕の肩に頭を預けたまま彼女がぽつりと呟いた

「こういう場所、いくらでもテレビで見るでしょ。南の島のビーチとか、北極とか、中国の奥地の村とか、アンデスの集落とか、中東の寺院とか、鏡みたいな湖とか。そういう場所があることを私たちは知っているのにこの先一生そういう場所に行くことってないんだろうなって。きっとどこにも行けない。」

僕はそれをすぐに否定することができない。

ガタン、と何かが落ちる音で目が覚めた。

部屋はガランと静まり返っている。
テレビの電源は消えている。
夜明けの青がブラインドの隙間から滑り込み部屋に縞模様を描く。
まるで牢獄のようだった。
首が痛い。
ソファでそのまま寝てしまったみたいだ。
部屋には僕一人だった。

どこにも行けないと言っていた彼女はある日、僕の知らないどこかに行ってしまった。
結局どこにも行けなかったのはこの部屋に残された僕の方だ。


僕は彼女のことが嫌いだった。

すぐに不安を口にしていきなり泣いたりちょっとしたことで機嫌を損ね僕に当たり散らしたり約束を平気で破ったりした。
それでもたまに今日あったことを笑顔で僕に話す姿だったりとか、僕がいないとすぐにダメになりそうなところとか、僕よりもバカで愚かで弱い人間を見ていることでどこか安心感を得ていたとかそういう感じの割と最低でずるい理由で彼女が傍にいることを許容していた。
僕のそういう部分を彼女自身は多分気付いていたのではないかと思うが、それを確かめる術は今となってはない。


ある冬の日、めったに雪が降らないこの街の上空を寒波が覆い街を白く染めた。
満足に暖房のないこの部屋で僕らは二人で毛布にくるまりながらあおむけで窓の外を眺めていた。
落下していく雪を見ているとまるでこの部屋が空に上昇していくエレベーターのようだった。

「この部屋の窓からでもこんな景色が見えるんだね。」

彼女がぼつりと言った。その日の彼女は珍しくひどく穏やかだった。

「この雪を降らせている寒気はシベリアから来てるんだ。」
「すごい。じゃあここから見えているのはシベリアの風景だね。」

彼女はやっぱりバカで愚かで弱い人間だったが、僕はきっと彼女のそういうところを愛していた。

僕のとなりで子供のように笑いながら空に向かって手をかざす彼女の姿を眺めながらこの時間がずっと続けばいいのにと思っていた。


その日に降った雪が嘘だったみたいに全部溶けてなくなってから3週間後、彼女は食器棚のグラスや皿を全てめちゃめちゃに破壊してこの部屋を出て行った。
外は強い風が吹いていて、少し空いた窓から吹き込んだそれがカーテンを狂ったように踊らせていた。

あれほど何度も泣きながら「どこにも行かないで」と僕に縋り付いてきた彼女はあっけなく僕の元を去った。

「どこにも行けない」と「どこにも行かないで」という二つの言葉に未だに縛られこの部屋に囚われ続けている僕の方がよっぽど彼女よりバカで愚かで弱い人間だ。

あの日暗い部屋でぼんやり眺めていたテレビみたいにこの部屋に彼女の残像を見てしまう。

もうその場所には二度と辿り着けない。
シベリアよりも遠い。

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