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鯨の椅子

この町に越してきてしばらく経つ。
海のそばに住みたいと思いこの町を選んだのだが、僕がこの町に住み始めてから青空を一度も見ていない。

あとから知ったのだが、この町は日照時間が短いことで有名らしく、晴れる日は年に数回という特殊な土地だった。
窓の外には鈍色の海が今日も広がる。


午前中予約していた歯科からの帰り道、たまたま神社の境内で骨董市が行われていたので寄ってみた。
平日ということもあり境内の人はまばらだ。

箪笥や足踏みミシンのような大きなものから皿や時計や着物、よくわからない歯車や機械のパーツのようなものも並んでいる。

その一番隅の方にひっそりと白い椅子があった。

独特の優美な曲線が組み合わされた背もたれとどっしりとした座面、あまり見た事のない不思議な意匠の椅子だ。

気になったのでしばらく見ていたら、店主らしき男性が話しかけてきた。

「にいちゃん、その椅子気になんのか?」
「あ、なんか、真っ白な椅子なんて珍しいなぁ。って。なんか木でもプラスチックでもないですね。象牙、、、?」
「鯨の骨らしいぞ。」
「鯨、、、」
「元々四国のほうで捕鯨で生計を立てていた家があってな。その家から引き取られたものらしいが俺も詳しいことはわからん。まぁこんな椅子は見たこともないし、珍しいもんだと思うぜ。買うなら安くしとくよ。」

閑散とした部屋に置かれた鯨の骨の椅子を思い浮かべながら、悪くないなと思い僕は椅子を買った。

高台にある僕の家に持って帰るのは非常に難儀だったし、途中で霧雨が降り始めて余計に疲れた。

家に着く頃には大分外が薄暗くなっていて雨も本降りになっていた。
着ていたシャツは濡れてひどくベタつき肌に張りついて気持ちが悪かったので椅子を窓辺のスペースに置き軽く拭いた後、シャワーを浴びた。

浴室から出て頭をタオルで拭きつつ冷蔵庫から麦茶を出しグラスに注いだ。
こういうとき、ビールなのかなといつも思うが、僕は酒が飲めない。

フローリングに座って麦茶を飲みながら鯨の椅子を眺めた。
せっかく椅子を買ったのだから座ればいいのだが。

僕は鯨を見たことがなかった。
テレビや本で鯨の存在は知っている。
おそらく殆どの人が『知識としての鯨』が頭の中にいる。
しかしその中で本物の鯨を見たことがある人はどのくらいだろうか。

自分よりも何十倍も巨大な生き物の一部が椅子の形をして僕の部屋の窓辺に置かれている。
そう思うとなんだか不思議な気持ちだった。

吸い寄せられるように立ち上がり背もたれに触れると、それがかつて生きていたものだとは思えなかった。
木でもプラスチックでも鉄でもない。
これは骨。

座ってみると、その個性的な外見からすると意外なほど、背もたれの独特な曲線がまるでオーダーメイドで設えたかのように身体によく馴染み、座り心地がよかった。
疲れていたせいもあり、僕はそのまま寝てしまった。

そのとき変な夢を見た。
四方八方真っ青な闇の中にいるというただそれだけの。
時折遠くから何かが聴こえた。
鳴りやまぬホワイトノイズに混ざり聴こえる巨大な管楽器のような音。
それは深い海の中の光景で、聴こえたのは鯨の歌だったのかもしれない。

目が覚めると外はすっかり暗くなっていて激しく雨が窓ガラスに打ち付けていた。
時折すごい音を立てて海から吹き付ける風は夢の中で聴いた鯨の歌によく似ていた。

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