蜃気楼
花が盗まれた。
朝起きて水をやろうと表に出ると昨日まであったチューリップが全部なくなっていた。
雑に引き抜かれて球根からちぎれた根が土の間から見えていた。
私は水をかける対象を失った重たいじょうろを抱えながら立ち尽くした。
ようやく動けるようになり、じょうろの水を排水溝に捨て、部屋に戻って泣いて、警察に被害届を出した。
それからは何もかもがうわのそらで、一体盗んだ人間は何を考えてこんなことをしたのだとか、毎日手をかけて世話をしていたチューリップのことなどを考えて悔しいやら悲しいやらで頭がごちゃごちゃしていた。
パンケーキは焼きすぎてしまうし、洗剤の量を間違えて洗濯機は泡だらけになってしまうし、アイロンはシャツを黒く焦がした。
犯人が憎かった。
どうにかして復讐してやりたかった。
しかし、花がなくなってしまった花壇に再び犯人が戻ってくることなどないだろう。
どうすれば、どうすればあんなひどいことをした人間にその報いを受けさせることができるだろうか。
どう考えても私のような素人では犯人にたどり着く足取りを見つけることなどできない。
この気持ちのやり場のなさを一体どうすればいいのか。
がたん。と、玄関の郵便受けが音を立て、バイクが走り去る音がした。
郵便屋さんが来たらしい。
のろのろと立ち上がり郵便物を取りに行く。
どうでもいいDMの束の中に薄い黄色の封筒があった。
差出人を見ると文通相手のミチルさんだった。
ミチルさんとは5年ほど大体1か月に1通ずつというペースで文通をしている。
文通相手募集掲示板で知り合い、何気ない近況などを送り合っているが今まで直接会ったことはない。
ミチルさんはとても遠くの海のある街に住んでいて、よく海の様子のことを手紙に書いてくれる。
ミチルさんが教えてくれる海はグーグル画像検索で「海」と検索して出てくるような青い色だけでなく、オレンジや緑色や銀色、桃色やクリーム色やブドウ色だったりする。
私はそれを読みながら、下町にある安アパートの狭い部屋で見たこともない海の風景を思い浮かべている。
“今日は珍しいものを見ました。蜃気楼です。沖のタンカーが空中に浮かんでいるように見えました。この時期にはたまに見えるのですが、何度見てもあれはとてもふしぎなものです。もしも本当に船が空を飛んでいてもわからないかもしれません。”
蜃気楼が見えたということはわかったけれど、最後の一文はよくわからない。
ミチルさんはちょっとそういうふわふわしたところがあるけれど、それがミチルさんのいいところだと思う。
その下に線の上にたくあんみたいなものがある絵が描かれている。
おそらく蜃気楼の絵なのだろう。
私たちの決めている文通のルールに『写真を同封しない』というものがある。
文字だけでコミュニケーションを取るという決まりがあるほうがいろいろ想像できて楽しいからと、文通を始めるときに決めたのだ。ちょっとしたイラストはOKということにしている。
“蜃気楼はハマグリが気を吐いて浮かび上がらせた楼閣という意味らしいです。あんな小さいハマグリが気を吐くってなんなんでしょうね。ヤバいですね。ハマグリ。今度からハマグリを食べるときには気を吐かれないようにお互い気を付けましょう。”
ミチルさんの手紙を読み終わり、ハマグリのことを考えていたら少し気分が落ち着いた。
夕ご飯の買い出しに行くことにした。
スーパーの鮮魚コーナーの「今が旬!産地直送!」のPOPの下にハマグリがあった。
ミチルさんからの手紙を思い出して、普段は買うことのないハマグリを手に取った。
買ったはいいもののハマグリを使った料理が思いつかず、ソファでごろごろしながらスマホでハマグリ料理のレシピを調べる。
酒蒸し、クラムチャウダー、バター焼き、お吸い物、、、
何の気なしにWikipediaの「ハマグリ」の項目を見てみると、「ぐれる」の語源はハマグリの貝殻が合わないことを「ぐりはま」といい、訛って「ぐれはま」となりそこから来ている。と書いてあった。本当だろうか。
愚連隊から来ているのかと思ったが、愚連隊という言葉自体が「ぐれる」の当て字らしい。
今度から不良少年の集団を見たらハマグリのことを思い出してしまう。
結局一番簡単そうな酒蒸しを作ることにした。
―ハマグリの酒蒸しの作り方―
1. まず、数時間塩水に浸し、砂を抜きます。
私はスマホの画面を閉じた。
砂抜き。しかも数時間。
ハマグリは気だけではなく砂を吐くんですね、ミチルさん。
私は今日はハマグリを食べることを諦めた。
とりあえず、ハマグリは水をいれたボウルにあけて塩を振り冷蔵庫に入れた。
ハマグリはきゅうきゅうと鳴いていた。鳴くのか。ハマグリ。
ハマグリを諦めて冷蔵庫の中の賞味期限が危ない食材をとりあえず入れた焼きそばを作って晩御飯に食べた。
お風呂から上がってミチルさんへの手紙の返信を書く。
あまり夜に手紙を書くのはよくないなと思うのだけれど、なかなか昼に手紙を書く気にならない。
5年やりとりをしていても、私はミチルさんについてあまりよく知らない。
海のそばに住んでいること、目玉焼きには醤油をかけること、ネコと暮らしていること、ブロッコリーが嫌いなこと。年齢や性別はよくわからないが、一人称が「私」で文体がやわらかくやさしいかんじなので女の人ではないかなと思う。
引き出しからこないだ街の雑貨屋で見つけて買ったアフリカの動物がたくさん書いてあるレターセットを取り出した。
文通をするようになってから、よく雑貨屋を覗いてはかわいいレターセットがあったら買うようになった。
そうして集めたレターセットは机の引き出しにまとめて入れてある。
万年筆のキャップを開けて便箋の上に走らせた。
“こんにちは。だんだん私の住んでいる町もあたたかくなってきました。ミチルさんの住んでいるところはどうですか?
今日はとてもかなしいことがありました。ずっと育てていたチューリップが何者かによってすべて持ち去られてしまったのです。
絶対に犯人を許せませんが、犯人がわからないのでイカを食べたらアニサキスに当たって胃が痛くなって苦しめばいいと願っています。
ミチルさんの手紙にハマグリのことが書いてあって、今日の晩御飯はハマグリにしようと思ってスーパーで買ったのですが、砂抜きをしなければ食べられないらしく、今冷蔵庫でハマグリに砂を吐かせています。
砂以外に気を吐かれていたらうちの冷蔵庫は蜃気楼だらけになってしまっているかもしれません。明日冷蔵庫を開けるのがちょっとこわいです。
冷蔵庫に入れるときにハマグリはきゅうきゅうと鳴いていました。
ハマグリが鳴くなんて初めて知りました。
あと、不良になることを「ぐれる」といいますが、あれも語源がハマグリらしいです。今度から不良を見るとハマグリを思い出してしまいそうです。
まだまだ夜は冷えるかと思います。
お身体にお気をつけてお過ごしください。”
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