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笑える鍼灸院を目指しているわたしが「笑い」について考えてみた

3年ぶりぐらい?に、なんばグランド花月に行ってきた。

NGKに来る人たちの希望はたぶん「笑いたい」ってことなんやと思う。もちろんわたしも、「今日やすともおるやん!やったー!」というテンションで臨んだし、実際にやすともはおもしろかった。

だけど、漫才、そして新喜劇を見終わったあと、ちょっと心にモヤモヤが残ってしまって、うーんこれはnoteにしよっかな、と思ったのだった。

笑うことで悪者になりたくない心理

芸人さんは、自分の見た目も武器にして、それを笑いにするところがある。

「お前、顔テカテカやないか!」
「こいつほんまブサイクでしょ〜」

ただ、そこで笑うということは、見た目へのディスりを肯定することになり、自分が悪に加担してしまったかのような罪悪感もうまれる。そもそも笑いは、ある種の残酷さをはらんでいるので、だれも傷つけない笑い、というのは平和だけど切れ味には欠ける。ほっこりした笑いを欲しがる人と、シャープな笑いは相性がわるい。

前半の漫才でも、アインシュタインというコンビが出てきて、のっけからブサイク自慢がはじまった。この人たちはテレビでも見たことあるので、まぁ人気なんやろう。たまたまその日は、修学旅行中の中学生たちが来ていて、さすがの歓声だった。

「こいつ、吉本男前ブサイクランキングで堂々の1位で……」

というのを聞きながら、まだそんなんやってんねや、としか思わんかった。

「2位から10位までの票数足しても9万票で、1位の16万票にはとどかんのです」てところで一番ウケていて、確かにネタとしてはおいしいんかなというかんじ。

でもなんやろ、わたしは見た目を使って笑いをとるのはあんまり芸風として好きじゃなくて、それは「悪者になりたくない」というよりも単なる好みの問題なんやけど、わたしの中のおもしろさリスペクトって、純粋にしゃべりで笑わせる人に対して生まれるものなんよね。

何組かの漫才が終わり、休憩をはさんで新喜劇が始まる。座長の酒井藍ちゃんが、のっけから烏川耕一から見た目でいじられる。そしたら藍ちゃんはこう言った。

「そういうの今はもうだめなんですよ。ルッキズム反対!」

ここで少し笑いが起こる。

ただ、その後も、今度は藍ちゃんが誰かを「デブ」と言い出して、烏川さんが「お前のほうがひどいやないか!」とツッこんで、一同は笑う、みたいな流れだった。

これ、めっちゃ中途半端やなぁと思ってずっともやもやした。

「ルッキズム反対!」と一言はさむことにより(その後も何度か言ってたが)、「わたしたちは、わかったうえで、見た目いじりをしていますよ。安心して笑ってもらって大丈夫ですよ」というメッセージを伝えているように見える。

ただ、それって、そのあとほんまに笑えるのか?

一度与えられた良識をくずすことって結構むずかしいし、「今この場では大丈夫よ、芸人さんたちはわかってやってるんやから傷つかないし、あなたは笑ったって悪者にはならないよ」というようなことを言われても、もうそれって、純粋におもしろくはないやん。

見た目を笑いに変えない、と決めたなら、見た目いじりを一切なくしたネタを書いてほしかった。ほんで、見た目をいじらないとキャラを活かせないと思うなら、ルッキズムとかいう言葉を使わずに、古い芸風で突っ切ればいいのにと思った。

笑いとTPO。「不謹慎」という感情があると人は笑えない

もう一個あかんと思ったことがある。西川のりおと、桂文珍師匠。

ちなみにわたしは、西川のりおは下品やしあんまり好きじゃないけど、桂文珍師匠のことは大好きで、毎回観るたびに「さすがやなー!!」と思うぐらい、すごいと思っている。それでもなお、今回はあかんとこがあった。

ふたりとも、時事ネタを入れながらネタをすすめていたのだけど、共通点があって。

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