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「毒親」にならないために、覚えておきたいこと

こういうツイートを見ると、親ってかんたんに人一人を壊せるよなーって感じます。わたしも育児をしていますけど、これを見て、自分の何気ない言葉や態度が、子どもたちの価値観の基礎をつくっていくという自覚を新たにしましたね。

「良い親」に、なれるものならなりたいと思うけど、無理してプラスの存在になるよりもまずは、明らかにマイナスの存在にならないように努力するほうが大事だなと思ってます。いわゆる「毒親」ってやつ。

毒親って、子どもに愛情をかけない親のことではないんですよね。むしろ愛情は人一倍もってる。ただ、その表現方法がけっこう激しく間違ってて、毒になってしまっているという、哀しいミスマッチです。

自分が「子どものために」と思ってやっていることが実は悪影響だったとしたら、こんなに哀しいことはないですね。子どもも不憫だし。

だからこそ、育児をしている人や子どもと関わる人は、学びましょう。
自分の愛情が、だれかへの攻撃になってしまわないように、この世で「生きづらい」と感じる人が一人でも減るように、自分が毒にならない方法を。


うまく甘えられなかった人は、大人になっても生きづらい

「人に甘えるのが苦手」だと感じている人とお話していると、人生のどこかのタイミングで、「甘えを許されてこなかった経験」にぶちあたります。甘えたいのに、適切に甘えられなかったとき、人は我慢をするしかなくなり、そのうちに自分の要求を上手に通せなくなってしまうんですね。

そうなるともうね、生きづらい。常に人に合わせる感覚です。
自分の望みはかなわないのに、人が望むことには敏感なもんだから、自分だけが一方的に奪われているような不公平感が常につきまとってしまう。

大人は、ある程度の責任を求められるので、「できない」「わからない」とかって表明すると「甘えるな」「ちゃんとやれよ」って言われてしまいがちだし。つらい。

甘えたくても甘えられなかったという満たされない想いは、大人になっても、漠然とした不満足感として、その人の人生に残ってしまう可能性が高いです。自分は甘えられないのに、誰かの期待を満たすためだけに尽力してしまう。

誰かに喜んでもらえることが自分の喜びにつながるかも、と期待して、でもその結果、やっぱり本当に自分が望むことではないので、行動しても疲れてしまったり。

こうなると、いつも「一方的に奪われる感覚」が抜け出せず、本人も非常に苦しい想いをするんですね。大人になって築く人間関係は、もうその人自身が選べるはずなのに、根底に満たされない気持ちがあるので、何かがあったときにすぐ嫌な記憶や概念が表出されてしまいます。

今目の前で会話をしている人よりも、過去の記憶のほうが引っ張り出されてしまうことで、人間関係が悪化しやすくなったりもします。「自分のことを愛しているなら、これを受け入れてくれるはずだろう?」という過度な期待を相手に持ち込み、そしてその期待がかなわなかったときの落胆を、相手への敵意や、不満行動として出すこともあります。

これはあまり建設的な行動ではないのですが、本人は【受け入れられたい】という行動原理で動いているので、なかなかやめられません。そしてその結果、また孤独になって、傷ついてしまう……。

だからほんとはね、子どものときにしっかり甘える経験をさせてあげてほしいんですよ。適切な時期にしっかり誰かに甘えられた人は、その後の人生もわりと生きやすくなるんです。


干渉しすぎると、子どもの生きる力を弱らせてしまう

以前、しっかり甘えられると自立心が育ち、その結果、忍耐力も育まれるよ!みたいな記事を書きました。

一部、引用します。

「子どもが主体で」何かを希望し、それに大人が応えるというコミュニケーションが成立したとき、子どもの気持ちはとても満たされます。
つまり、子どもが周りにきちんと甘えられると、「ああ、必要な時には誰かに頼ることができるんだな」という感覚を獲得できることになり、その後の健康な心の発達に良い影響を及ぼすんですね。

「甘えたい」という欲求を満たすためには、あくまでも子どもが主体になっていることが前提なんですね。過干渉の親や、毒親たちは、「子どもが何かを考える前に」手を出してしまうことが多いです。

こうしておけば間違いない
わたしがしていることは子にとっても必要なサポートだ

そう思って、親があらゆることを先回りしてやってあげていると、子どもは自分で考える頭をもちません。いつもなんとなく快適で、知らないあいだに場がととのっている。でもいざ、おうちの外に出た時に、どうやってやればいいかがわからなかったり、そもそも何かを決めるときに親の意見がないと考えられなくなっていたりします。

だから、子どもが甘えたいというサイン(しぐさ・表情・言葉など)を感じたらしっかり甘えさせてあげてほしいけれども、子どもが望んでいないことまで手を出さないでおこうね、ということですね。

子どもには子どもの目線があります。年長者である親は大人は、ついつい高い目線から「正しいこと」を言ってしまいがちだけど……

子どもの目線でやってみて、その結果(うまくいっても、うまくいかなかったとしても)から学ぶことはとても大きいのです。そのときに、子どもが感じた感情に、一緒によりそってあげたいですよね。

「ほんとだ!うまくいったね!やったー!」でもいいし
「うまくいかなかったね~。くやしいー!」でもいい。
だめなのは、
「だから言ったでしょ。わたしの言う事聞かないからだよ」
「それぐらい、だれでもできるわ」と、拒絶したり抑えつけたりすること。

子どもが自分で考え、決めて、行動した結果を、受け入れるということを念頭に置いて、適度な距離感で見守っていきましょう。


なるべく言葉にして伝えるスキルを育てる

これは我が家の事例なんですけど、ご飯を食べているとき、娘が言いました。

「お茶」

って。

わたしは、娘がお茶を飲みたいからコップに淹れてほしい、という気持ちなんだなと受け取りました。だけど、

「お茶、だけではわからないよ。お茶淹れてください、までちゃんとお願いして」

って言いました。そのあとは「お茶淹れてください」「いいよ。はいどうぞ」「ありがとう」までやりとりできました。

このやりとりを見て、めんどくせー親だな、言いたいことがわかってるなら最初っから淹れてやれよ、て思いますか?わたしはそうは思いません。

自分の望むことをきちんと言葉にせず、「相手ならわかってくれるだろう」「言わなくても伝わるだろう」と期待してコミュニケーションをとることは、とても危険だとわかったからです。

自分ならわかる(そうする)から、きっと相手もわかる(そうする)はず、という考え方は、やめたほうがいいんですよね。自分が望むことはきちんと相手に伝えるところまでは最低限必須のソーシャルスキルです。そのうえで、相手がそれを理解しないのなら仕方ないけど、自分が伝えてないのに、「伝わらないなんてひどい!悲しい!」って怒ったり傷ついたりするのは、間違っているのです。

とはいえわたしも、相手ならわかってくれるやろう……って甘えて、勝手に期待して、でも受け入れられなくて、勝手に傷ついたり幻滅したりするという、なんとも幼い行動をとったことがあります。相手からしたら、知らんがな、てかんじやと思います。その節はごめんなさい(だれに)。

相手がその希望を受け入れる/受け入れないは相手の自由意思です。でも、相手に「伝わる」ようにコミュニケーションをとるのをサボっていたら、やっぱり相手と良い関係は築きにくいと思うんですよね。娘たちには、なるべくそういう苦労をしてほしくない。

って思ってたらこないだ、患者様も似たようなことをされていて。

これの何がいいかって、2段階あるんですけど。

①親は、子どもが望む行動(靴をはかせてほしい)をわかっていながら、自分の希望を言葉にして表現することを子どもに促している
②子どもが、きちんと、どういったサポートが必要なのかを具体的に言語化できている

親御さんもお子さんも、どっちもものすごくえらいし、素敵やなって思いました。聞くと、通っている幼児教室で、そういうお話をされたから……とのこでした。すごい。すぐ日常に活かせるの、すごい。

言葉以外のコミュニケーションはもちろん大事だし、声や表情、しぐさで伝わるものはたくさんあるという前提で、そのうえで、やはり言葉を上手に使えたほうが、コミュニケーションの齟齬が起こりにくくて生きやすくなるよ、というお話です。

ということで、親もお子さんの気持ちを察して、ついつい言われなくてもやってしまいがちなところはあるのですが、そこをぐっとこらえて、きちんとお子さんの言葉を待ってから行動してあげるのもよいかと思います。


育児、という言葉は、どうしても親が主体的に行うもの、というイメージになりやすい気がしています。だけど実際、子どもは勝手に育つんですよね。衣食住を与える、きちんと甘えさせてあげて安心させる、手や口を出しすぎない(発達を邪魔しない)、言語化を手伝ってあげる、こういったサポートができる親は素敵だと思います。

よくあそんであげるとか、ほしいものを買ってあげるとかはまた別の話ですね。

発達の主体を子どもにおく、ということを大前提にしていれば、毒親にはなりにくいのかなと思います。自分の愛情が、素直に相手を良い変化にすすませるよう、わたしも気を付けて生きていきたいです(*'ω'*)

いただいたサポートは、子どもたちのために遣わせていただきます😊いつもありがとうございます!