謎解き・バナナフィッシュにうってつけの日13「文学の力」
dig フカボリスト。口がわるい。
e-minor 当ブログ管理人eminusの別人格。
☆☆☆☆☆☆☆
どうもe-minorです。
digだよ。
というわけで「バナナフィッシュ」最終回。
7月に第1幕をやったのから数えると足かけ3ヶ月か。よく続いたな。ま、暑すぎて途中ずいぶんさぼってたけど。
呼んでもdigが来てくれなかったからね。
しかしキリスト教がらみの話をたっぷりやって全13回ってのも出来すぎてるな。
狙ったわけじゃないんだけど、こういう符号はよくあるね。『鋼の錬金術師』の原作も全108話なんだよね。煩悩の数。荒川弘さんも狙ったわけではないと言ってらしたけど。
それと比べるのはいくら何でも僭越だろう。と自信家のおれですら思うぞ。
あくまでも1つの例としてだよ。では本文。
若い男は5階で降り、廊下を抜け、鍵を開けて507号室に入った。部屋は新しいカーフスキン(仔牛革)の旅行鞄と除光液の匂いがした。
ツインベッドの片方に横になって眠っている女の子を、若い男はちらっと見た。それから荷物のところに行って、鞄のひとつを開け、パンツやアンダーシャツの山の下からオルトギース7・65口径の自動拳銃を取り出した。弾倉を外し、眺め、もういちど挿入した。撃鉄を起こした。それから、空いているほうのベッドに行って腰を下ろし、女の子のほうを見て、ピストルの狙いを定め、自分の右のtempleを撃ち抜いた。
あえて「temple」を訳さなかったことに礼を言っておこうか。
むろんdigの強引な主張に屈したわけではないが、ここまで付き合ってきて、ぼくもシーモアが今まで以上に好きになっちゃったもんでね。
シーモアも勿論だけど、おれは「女の子」ことミュリエルが気の毒でならない。
たしかにこれはショックだろうねえ。いまの日本では「トラウマ」という用語があまりにも安っぽく濫用されているが、これぞまさしくトラウマの名に値する。
十代でこれ初めて読んだとき、当然ながらこの結末に納得いかなかったんで、『フラニーとゾーイー』、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア―序章』っていうのがこの続編って聞いて読んでみたんだよ。『ナイン・ストーリーズ』と同じ新潮文庫で出ていたからな。そのとき、シーモアの弟妹たちが残されたミュリエルのことをぜんぜん気に掛けてなかったのが何よりも不可解、っていうか正直いって不愉快だった。その点は今でもそう思うぞ。
ミュリエルに対しては研究者とか読者もわりと冷たいよね。「彼女やその母親の俗物っぷりにシーモアがほとほとうんざりして……」みたいな評をよく見かける。しかしほんとにそれだけですかと。彼女の名前にかんしては、第1幕をやった時にdigが解説してたけど。
ミュリエル(Muriel)はゲール語の「輝く海」から来ている。その音はMarielに通じ、これはメアリー(Marry)ないしマリー(Marie)の愛称だ。すなわち……
聖母マリア。そして「輝く海」でもある。
これだけ登場人物に周到に名前を付けるサリンジャーが、彼女の命名だけおろそかにするはずないんだよ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?