はじまり


「はい、いらっしゃい」

 受付の女の子は、顔も上げずに僕を迎え入れる。愛想がない。けれど、彼女の、乾いているが奥行きのある声は、ひどく魅力的だった。僕は、つむじをこちらに見せたまま、自分の爪をいじる彼女をしばらく見つめてから、ドアを開け、中に入った。

 暗闇に目が慣れるのに、少しだけ時間がかかる。奥にはもう一つ扉がある。開けると、大きなスクリーンが目に飛び込んできた。僕は最近、このTV劇場に通っている。なんてことはない。ただ大きなスクリーンで、TVを観るだけ。特別なことは何もない。広い絨毯敷きの床の上に、いくつかのちゃぶ台と座布団が置いてあり、それがいわゆる客席だ。言ってみれば、大衆お茶の間といったところだろう。チャンネルを変えるのも自由、音量の上げ下げも自由。しかし、リモコンは一つしかなく、劇場の係員が持っている。少し前まで、こういったTV劇場は流行りで、いつも混んでいた。今はブームも去り、ここには本当にヒマな人しか来なくなった。

 僕はなるたけスクリーンから遠い場所を選び、座布団の上にあぐらをかいた。今日も人はまばらだ。一人で一つのちゃぶ台を独占できる。スクリーンでは、子供向けのアニメ番組が始まったところだ。甲高い声の女の子が、目をウルウルさせたり、空を飛んだりしている。劇場内から笑い声が起こることはなく、動く者もいない。顔はスクリーンに向いたままだ。なんとなく安心して、僕はタバコに火をつける。

 ここに通い始めたのは、最後に付き合った女性がきっかけだ。僕は彼女が大好きだった。愛していた、と言ってもいい。彼女とした最後のデートが、このTV劇場だったのだ。当時はまだブームの最中で、ちゃぶ台は相席だった。僕たちはぴったり寄り添って座り、一緒に環境破壊についてのドキュメンタリーを観た。温暖化による海面上昇で沈んだ島々、絶滅していくラッコやマナティー、砂漠が広大化し家を失う人々・・・。そこにいる間中、彼女は一度も顔をこちらに向けなかった。僕が腰に手を回しても、姿勢を崩さなかった。次の日、彼女は置き手紙を残して、僕の人生から消え去った。

 僕には今でもさっぱり理由が分からない。僕のどこがいけなかったのか。彼女の心に何が起こったのか。僕は、頭をかきむしったり、大声を上げたり、道路に飛び出したりした。だけど、彼女はもういない。彼女の面影を探して、あちこちを歩いた。歩き疲れて、僕はここへ来た。すると、彼女の匂いがしたのだ。あの日僕の近くにいた彼女の香り。甘くて、清楚な香り。その香りは僕にあの笑顔を運んできた。だから、僕はここへ通う。彼女の匂いは、いつも消えずに僕を迎え入れてくれる。なんの変哲もない僕の人生で、唯一幸せと言える時間なのだ。

 後ろの方でドアが開いて、閉まった。靴を脱ぎ捨てる音に続いて、足音がこちらの方へ近づいてくる。隣りのちゃぶ台で、ドカッと大きな音がして、見ると女の子がちゃぶ台の上に足を組んで座っている。くちゃくちゃとガムを噛んでいる。暗がりに浮かび上がる白い腕の先には、小さな手。そしてリモコン。次の瞬間、ヴッという音とともに、スクリーンから発せられる光の色が変わり、甲高い声が消えた。代わりに、青い海の中を飛ぶように泳ぐイルカの映像が流れ始めた。満足そうな笑みを浮かべる女の子に気を取られていると、またヴッという音とともに、甲高い声が戻ってきた。見る間に顔が険しくなる女の子の鼻はとても形がきれいだ。またヴッという音とともに、イルカが水上へジャンプし、次の瞬間にはアニメの女の子が照れ笑いをした。係員がチャンネルを元に戻そうとしている。そもそも何故この女の子はリモコンを持っているのだろうか。チッ。女の子は小さく舌打ちし、こちらを見た。僕の視線を感じたのだろうか。大きな瞳が僕を捕らえる。女の子はすっくと立ち上がり、どすどすと近づいてきた。僕は罪悪感でいっぱいになり、鼓動が早くなった。女の子は短いスカートを揺らし、僕の前で立ち止まると、勢いよくしゃがみこんだ。

「これ、あげる」

 リモコンをちゃぶ台の上に置きながら、そうささやくと、劇場から出て行った。女の子が僕の耳にもっとも近づいたとき、心臓が止まりそうになった。女の子は、彼女の匂いがした。

 フラフラとガラス戸を押し開け、劇場を後にした。もう夕日が沈み、空がオレンジ色から紺色へ変わろうとしている。動き始めた僕の心臓は、空の美しさに涙した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?