干渉と愛

私は原作ではなくアニメーションで『すべてがFになる』を見た。
高3の卒業シーズンで私はこれを初めて見たのだけれど、最近1年ぶりくらいに改めて見てみることにした。で、1年前とは全く思うことが違くて驚いたので、ここにこの作品を見て感じたことを書き残しておきたいと思ったのだ。

この作品はあらゆるところに愛や人間のエッセンスがちりばめられている。心に刺さる言葉がいくつもあったが、今回はその1つの話をしよう。

かなり終盤のシーンで真賀田四季博士が、犀川に向かって、「他人に自分の人生を干渉してもらいたい。それが愛されたいという言葉の意味ではありませんか?」と言うシーンである。本当に素晴らしく、人間の本性を暴いている台詞だ。
人間は「動物的な本能」と「理性と言う言葉では言い表せない何か」を持ち合わせた生き物なのだと私は思う。最初、人は他人が干渉してこようとしたら動物的な本能によって警戒し、恐れ、他人を拒もうとする。しかし、その「何か」によって人はいつの間にかその干渉を自ら求め、干渉されることに快感すらおぼえてしまうのだ。
これは実体験だが、
ある人と深く関わるようになってきた時に、その人が私に干渉してこないので強がって、「私は他人にそんなに干渉されたくないから良かった」と口走ってしまった。しかしそれは嘘だ。本音を言えば、その人に干渉されなかったことが悔しくて、ただ辛かった。なぜなら、干渉されないということが、その人に愛されていないと言う事実を感じ取ってしまったから。
それと同時に1度でも自分が愛した相手に愛されることを知ることができたなら、どんなに幸せだろうかといつも思っていた。
結局私は、その人とは愛を育てることはできなかったのだが。人生は長いので、焦らずにまた愛を探せたらと思う。
他人とはそんなに遠いものなのだろうか。と私は疑問に思う。他人はどこまでいっても他人。とよく言われているが、それは当然のことであり悲しさも嫌悪も特に感じない。自分以外が他人なのはごく普通のことだ。私の中で、自分と他人との違いは、絶対か絶対じゃないか。という違いだ。自分の意思とは違ったことを言ったりしてしまうことはあるけれども、それは自分なりの答えであり、それは「絶対」に価する。しかし、他人の意思は自分の答えではないから、絶対とは言えないのである。
それでも、人は他人に「絶対」を求めて、それが叶わずに自分を傷つけてしまう。ただ、それでもいいのだ。求めて傷つけられることこそが、干渉なのだから。

人の3大欲求に「愛欲」というものはないが、具現化するまでもなく人は愛を求めて生きているのだと思う。少なくても私はそうだ。どんな時にも、人と関わるということのどこかに「愛」という概念が存在している。
もちろん愛はプラスの方向ばかりを指し示すものではないが、それでも求めずにはいられない。そんなものなのだと思う。


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