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<おとなの読書感想文>無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記

お葬式などで人が集まって「その人」について語りたくなるのは、寂しさを紛らわすためでもあるだろうし、また誰かを失って浮遊する心を地上にどうにかつなぎ止めるためでもあると思うのです。

故人はこんな素晴らしい人で、このような思い出があって、最期はこのように安らかでしたよ。

ほかの誰かと共有することで、故人と自分との関係の中だけでは収拾がつかなかった感情にも、ひとつの名づけができるのではないか。
名づけを一区切りに、遺された人は残された時間を、精一杯生きるしかないのではないか。。。


さて、この本の「あとがき」は永遠に読むことができません。

わかっていたはずでしたが、本を閉じてしばらくは、ぼんやりと意識が浮遊するような感覚になりました。
あとがきの他に、末尾にたとえば著者に近しい人の「解説」のようなものを探したけれど、それもないので少し困りました。
おそらく、わたしもやり場のない感情に名づけをして、楽になりたいと思っていたのでしょう。
そのためには、生前の著者をよく知る人の口から出た言葉が必要だったのでしょう。

「無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記」
(山本文緒 新潮社、2022年)

作家の山本文緒さんが末期がんの宣告を受けてから亡くなるまでの数ヶ月、ご本人が綴った記録です。
病の中編集者とも打ち合わせをし、初めから書籍化するつもりで書かれた文章です。


わたしが最も印象に残っているのは、薬で症状を抑えて少し元気が戻った折、カフェに行ったときの一文です。

本当はその店のシーフードドリアが食べたかったのだがたまたまなくて、もともとカレーの店なのでグリーンカレーを食べた。
この店のシーフードドリアを食べることはもう二度とない。

同上

わたしは数年前にがんで亡くなったKさんのお見舞いに行ったとき、やはり「もう二度と」という実感を持って手を握ったことを思い出すのです。
その手がやわらかかったことは忘れられません。
1日1日が貴重、二度と戻らない時間、とわかってはいても、忙しない毎日は漠然と過ぎてしまう。
けれど、明確な最後を意識した時間は、いつまでも解像度の高い状態を保って心に残り続けます。

わたしの体験は病院でのことでしたが、たとえば午下りのカフェで、偶然同じ時間を共有した人が、実はそういう「もう二度と」の実感を持っているのかもしれません。

あるいは、いつの日か自分が。

シーフードドリアとグリーンカレーが、どれほど重く、味わい深く、忘れ難いのでしょう。
その人の目に見える風景は、わたしの見ている風景とどれほど異なっているのでしょう。
永遠に続くはずがない日常に、何重にも重なる時間のひだを垣間見たような気がします。


今ネット上を探せばこの本の「解説」に類するものがたくさんあるのだろうと思います。
しかし先に書いたように、あれほど解説を欲していたわたしがきちんと読んだのは、新潮社のwebページに掲載されていた角田光代さんの文章のみです。以下に最後の一文を引用させていただきます。

無人島で生ききった「私」にのりうつりながら、私は私個人の生きることと死ぬことを見つめていたのだ、それに、作者の山本文緒さんは寄り添ってくれていたのだと気づく。

(「寄り添われる、という読書」角田光代 波 2022年11月号より 単行本刊行時掲載)

迫る死を横目に、抑制が効いていて、最後まで「読ませる」ための文章を書かれたことに、プロの誇りを感じました。
そしてそれはつまり、著者自らが読者に寄り添う姿勢の表れでもあったのだと、あらためて思うのでした。

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