〈おとなの読書感想文〉サムのこと 猿に会う
ここ最近noteの更新がのんびりしていました。
展示前と期間中のばたばた、ばたばた。
そして今月15日から予定していたVol.2が延期になり、要するに気が抜けてしまったのでした。
展示の前はやはり準備その他でキリキリしており、家の者の言を借りれば「顔が変わっていた」のだそうです。どんな風だろう。自分で自分の顔は見られないから。。
しかし延期によって、無意識に強ばっていた筋肉が弛緩し、少し充電期間を持つことができました。思いの外よい時間が過ごせたと思います。
Vol.1の感想を述べるのはまた別の機会にしますが、とにもかくにも応援してくれたみなさまには感謝の気持ちでいっぱいです。
心を寄せてくださった全員に何かよいことがあればいいなあと願うばかり。
本当にありがとうございました。
来年、よりパワーアップした展示ができるようがんばりたいと思います。
展示キリキリ期間の頃、せわしないとかえって活字が恋しいようで、合間に手持ちの本を再読したり、小学生たちに借りたヒロアカや鬼を滅するマンガを読んだりしていました。
本屋を彷徨するには体力が必要なので、疲れているとなかなか足が向きません。
が、さすがに新しい本が読みたくなって駅前のお店に行くと、目に入ったのがこの一冊。
「サムのこと 猿に会う」
(西 加奈子 小学館文庫、2020年)
ドラマ化もされているようで、そちらはまだ観ていないのですが、原作とは違った風味なのかもしれません。
まず、「サムのこと」について。
主人公の僕(アリ)と仲間たちは、亡くなったサムの通夜に行くというのに場違いな発言ばかりしているし、喪服は揃わないし、厳かな雰囲気にまったく馴染めない。
戸惑いながら焼香を済ませたあと、通夜振る舞いの席で故人の思い出話をすることになり。。。
自分にとって馴染みのない関西弁で書かれたこのお話が、なぜだかとても心地よかったです。
がちゃがちゃとして不謹慎な連中に違いないのに、わたしは彼らに妙な愛着を感じてしまい、弔いの儀式(作法というべきか)としてこれ以上のものはないんじゃないかなと感じるのです。
むしろ自分が死んでしまったら、こんな風に弔ってほしいとすら思うほど。
アリがかつて父を亡くしたとき、道行く人みんなが黒い服を着て葬儀に向かうように見えたのに、実はそうではなかったという違和感。
誰かが死んでも、周囲の時間は変わらず流れ続けることの孤独は、近しい死を体験するとよく感じます。
それが、どうも死のより深いところというか、本質にもっと迫った悲しみという風に感じるので、サムに対する締まらない思いも、すべて腑に落ちる気がするのでした。
「猿に会う」のまこは、きよとさつきという仲の良い友人がいて、学校を卒業してからもいつも3人で過ごしています。
喫茶店の占いで散々なことを言われ落ち込んだものの、今度は日本一のパワースポットを目指して旅に出ることになったのです。
なんか、このままじゃだめなんだろうなあと薄々知ってる3人。
でもこの心地よさと円満さを手放す理由はどこにもない。
物語が伝えたいことは、シスターフッドの賛美でも打倒リア充でもなく、ただ一言「ありがとう」と言いたくなるような、温かい時間の軌跡なのではないでしょうか。
旅の宿に敷き詰められた、ふかふかの布団のような瞬間だと思いました。
境遇も立場も異なる、けれど「どこかはぐれてしまっている」ことが共通する2作品の登場人物たち。
彼らが満足そうに一歩を踏み出すラストが、とても愛しかったです。