エネルギー・ポートフォリオと持続可能な電化社会
正月にでもゆっくり書こうかな、と思っていたら先に書かれてしまったので、その付け焼き刃的な話を味わいながらこちらも書くことにする。
日本経済新聞12月30日4面オピニオン「脱炭素時代、争奪戦は続く」で、再生エネルギー争奪の可能性について述べられている。100年前のエネルギー情勢を述べた上で再生エネルギー争奪の可能性を示唆し、結局化石燃料高騰で締めているという何とも論旨の一貫しない、気の抜けたビールのような感じの記事で、あたかも年末までに化石燃料の下落が起きるだろうと読んでいたのが外れて仕方なく書いた、というような論説になっている。つまり、メディア主導の再生エネルギー転換政策の方向性がすっかりはずれ、思惑通りには進まなかったということを吐露しているような記事になっているのだ。あれほど脱炭素で煽り立てながら、それがいかに現実離れしていたかを示すような記事だといえそうだ。というのは、脱炭素の動きを見ると、国内に限らず、世界的な指導者層の、現実を全く見ず、頭の中の妄想だけで世の中がこう動くはずだ、いやそうあるべきだ、といった形而上的な考えで国際的な潮流が作られてきたが、これはその限界をはっきりと露呈したものであると言えるからだ。(正月早々自分が付け焼き刃でした。失礼しました。いろいろ間違いがありますね。気をつけましょう。)
一番大きな間違いは、エネルギー問題のポイントは、脱炭素ではなく、エネルギー収支であるということから目を背けていることだといえそうだ。最後の部分で、企業主導の再エネ発電所の可能性が謳われているが、そこで名の挙がっている製鉄業の取り組みは、再生エネルギーと電炉という組み合わせなのだろうが、頭の悪い私にはどうにも鉄スクラップを利用した電気炉の仕組みが理解できず、熱で溶かしているのならば鉄鉱石からでも可能なはずで、それができないという時点でそれはエネルギー収支の点では負を極小化する取り組みに過ぎず、いかに再生エネルギーを導入しようとも、基本的には既存のエネルギー消費サイクルの枠内での効率化であり、抜本的な脱炭素とはならないのではないかと考えてしまう。
一方で自動車メーカーの取り組みは電気自動車に切り替えて再生可能エネルギーで走らせる、ということなのだろうが、計算能力などの抽象的なものはともかくとして、物理的エネルギーとして電気が化石燃料よりも効率が良いとはどう考えても思えず、物理的移動手段を電気に置き換えるのは、鉄道のように最大限電気の力を生かすように最適化したものならばともかく、自動車のような少人数輸送で出力微調整が多く行われるものではかえって効率が落ちるのではないかと感じる。
ここで考えないといけないのは、先に書いた通り、問題の中心は脱炭素ではなくエネルギー収支であり、そしてどのエネルギーを何に使うかのエネルギーポートフォリオの問題であるということだ。例えば物理的に馬力が出るのは内燃機関であればそれは生かし、電気は情報伝達といったそれでなければできないことに使うといった具合に、それぞれのエネルギーの性質を生かして全体として最も向いたエネルギーを最も向いた用途に使うということを徹底することでエネルギー収支を最適化する必要があるということだ。
それは、何でもかんでも電化し、一方で発電で発生したCO2をまたエネルギーを使って分解などの処理を行うことを正当化することを含むような脱炭素では最適化され得ない、ということだ。もちろん、化石燃料からのエネルギー転換に際して発生することが避けられないCO2を減らす、ということを一つのベンチマークとすること自体は間違ってはいない。しかし、CO2を全体として減らすこと、ということに目標が切り替わると、CO2を出さない発電、それが再生可能エネルギーならば良いのだろうが、化石燃料から原子力に切り替えて全てを電化する、などということにもなりかねず、そうなれば本末転倒も甚だしいこととなる。原子力は、CO2よりもさらに処理の難しい廃棄物を出し、その処理方法は定まっておらず、問題を大きくするだけだと考えられるからだ。
だから、発生廃棄物の処理まで含んだエネルギー収支に焦点を当て、何に何のエネルギーを用いるのがエネルギー効率、そして経済効率が良いのか、ということを考える必要があるのだろう。まずはエネルギー効率の最適化によってどのエネルギー源を何に使うのかを定め、それに応じてそのエネルギーの生産から廃棄物処理に至るまでのコスト最適化を図る、という優先順位の設定をし、エネルギーポートフォリオを定める必要があるのだろう、ということだ。
その中で、化石燃料の消費管理はCO2によって管理するとしても、電気の方の消費管理として、できる限り再生可能エネルギーの生産範囲で納め切ることができるようにする、という管理が求められ、そうした中で、例えば量子コンピューターとか、メタバースとか、そう言ったことに電力を消費するほどに再生可能エネルギーの開発が進んでいるのか、ということは、エネルギー収支の観点から、エネルギー投資の最適選択ということで意思決定がなされるべきなのだろうと感じる。とりわけ、マイニングに基づく電子通貨のようなもの、あるいはデリバティブのような金融商品のアルゴリズムを用いた取引のようなものは、電力消費が甚だしい上に、機械の性能によって富の配分が定まるような不平等極まりないものであり、エネルギー分配の不平等がそのまま富の不平等につながる非常に質の悪い技術”進歩”であると言える。それよりは、むしろ、半導体の処理効率を上げることで、エネルギー投入あたりの処理能力を上げるといった、ハード面での技術革新の方が重要性が高まっているのではないか。そしてソフト面での技術革新も、利益主導ではなく、いかにエネルギー効率を上げるのか、ということに動機づけられるようにした方が良い時期なのではないか。つまり、個人的な価値観は利益に収斂されることのないように分散化させ、社会的価値観をエネルギー効率の向上に向けるといったことが必要になってくるのではないか。
それはDXの方向性を定めるのにも大きく影響する。政府を電子化するというのは、政府が非常に大きな電力消費者となることを意味し、そのエネルギー需要を賄うだけの、例えば現状の脱炭素の取り組みの中でも炭素排出ネットゼロでの電子政府ということは考えられているのか。電気が無くなれば止まってしまう政府というのは非常に脆弱であり、また、物理サーバーの場所などの問題にもなるが、クラウド上に情報を全部置くということになれば、そこへのアクセスが閉ざされた時点で完全に身動きが取れなくなってしまう。そういった大きなリスクを政府が中心となって抱え込むということについてきちんと考えられているのか。道具としての電子化というのは、エネルギーが許す範囲で行えば良いと思うが、脱炭素と政府の全面電子化を並行して行うというのは、明らかに原子力発電に舵を切るという意思表示としか見えない。記事に出てきた化石燃料の高騰というのは、世界的なそのような流れに対して市場が反乱を起こしたとも言える状態なのではないか。
要するに、現代社会は、エネルギーの兵站線が伸び切った状態で、電気消費型世界にどんどん突き進んでいるのだと言え、電気万能感から電化が奨励され、それによって特に大量の発電が可能な原子力発電が正当化されるということになっていると言えそう。原子力に頼らない形での持続可能な電化社会というものを模索する時期なのではないだろうか。
そのためには、資本の効率的活用ということを目指した経済学的な考え方を、エネルギーの効率的活用、そして最適配分といったものに切り替えてゆく必要がある。最適エネルギー圏とも言える地域ごとのエネルギー自給が可能な範囲で、その効率的活用・最適配分を考え、それによって地域特性にあったエネルギー消費を定め、一方で、それらの地域が余剰のエネルギーを拠出することで、インターネットのようなグローバルインフラを整え、なるべく世界中で平等な情報へのアクセスをアクセスを整え、グローバルなエネルギー格差が富の格差に直結しないような仕組みが必要になるのだろう。そして、エネルギーの爆食い技術というのを一旦ペースダウンし、再生可能エネルギーの可能性を広め、省電力での処理能力の向上を図るなどのエネルギーロジスティックスの再構築を行った上で、少しずつ高度の処理を実現してゆく、という方向が必要になるのではないだろうか。
情報が均等に広がれば、その違いによる摩擦というものが避けられ、争いの可能性が減ることによって持続可能な社会が実現しやすくなる。それは、政府による統制でも、ゲーム的市場による駆け引きと鞘取りによる利益追求でも、ましてや企業による誤った目標に向けての競争でも実現は難しいだろう。持続可能とは一体どのような状態なのか、ということを再定義することで初めて持続可能性についての議論が成り立ち、それに向けた社会への、対話と合意による納得に基づいた動きが本格化するのであろう。
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