情報の完全性と経済学
このところ経済学の理論と現実との乖離がどのあたりから現れているのかを追っているのだが、メンガーが効用の数学的分析の難しさを言い、マーシャルやケインズが一般均衡の成立について否定的だったのにも関わらず、新古典派経済学は、マクロ経済学との接続がなされぬままに無差別曲線によって効用の数学的分析がなされたかのように装った上で、ワルラス的な一般均衡に基づいたマクロ経済学が近代経済学の基本となっている。
限界革命の実相とその影響
実際のところ、限界革命とされているのは、限界生産力説であり、つまり、追加的生産要素一単位ごと得られる生産力の違いによって、生産要素の分配は最適に決定される、というもので、それによって市場を跨いだ一般均衡が成り立つ、という理屈であった。それは、消費者サイドの限界効用とはなんの関係もないし、そして生産要素にしても、収穫一定なのか、逓減なのか、逓増なのかによって条件はずいぶん変わってくるし、そして何よりも独占力や相場の影響力といったものが全く考慮されていない。基本的な部分で全く現実とはかけ離れた理論が、経済学の主流となって異常なほどの精緻化が行われているのだ。そして、現実はそれに従って動くはずだ、という思い込みによってマクロ経済政策が行われている。直感的に考えて、そんな政策がうまく機能するはずがなく、なぜ人間行動が思い込みと思いつきによって決められた理論に従って動かなければならないのだ、と感じるのが自然だろう。そして、そう動くべきだ、という思い込みが、さらに合理的期待形成だの、行動経済学だのによって政策応用され、ますます人間行動への政策の干渉が強まる一方で、それに基づいたマクロ経済政策の効果はどんどん下がっている。要するに、間違った理論に基づいて、間違った政策を、どれだけ精緻化して実行しようとも、間違った結果しか産まない、ということなのだ。
一般均衡のための完全情報
さて、ワルラス的な一般均衡が成立するためには、各生産要素についての、個別経済主体の生産力情報というのが満遍なく、歪みなく全ての市場に渡って拡散する、という完全情報が確保される必要がある。もちろんそんなことはどんな監視社会においても不可能なことであり、そんな前提を置くこと自体があまりに非現実的で、それを現実応用しようとすることがどれだけ現場の経済を萎縮させ、生産性を下げるか、というのは、共産主義の失敗を見れば明らかなのだろう。そのために共産主義は崩壊したのにも関わらず、一方の資本主義においては、市場においてそれを実現するのだ、というさらにトチ狂った実験に邁進し、それがデリバティブを核に据えた金融資本主義の全盛時代を築き上げているのだといえる。すなわちそれは、金融資本による共産主義とでもいえるものであり、平等を軸に据えようとした共産主義よりも、功利主義に基づいた「効率的」資源配分の幻想に縛られたこの金融資本共産主義ははるかに人類社会に与える負の影響が大きく、そこからなんのメリットが得られるのかすらも明らかではない。
経済学の理論的問題点
では一体どうすれば良いのか。対症療法については昨日すでに書いたが、根本的には経済学の理論が大きく間違っている以上、その理論をどうすべきか、ということを考えない限りは、問題は解決しないのだろう。そこで、まずは、一般均衡理論の中心的前提となっている完全情報について考えてみたい。そもそもミクロレベルでも完全な情報などというものが存在するのか明らかでない、というか、少なくとも私の個人的経験では、スポット的にはそういう幻想を持ったこともあるが、長期的に完全情報が成り立つなどというのは、それは「死」でしかないのではないか、と感じる。ミクロレベルでそうなのに、そんなものがマクロ的に成り立つはずもないのだ。まさにそれは、ケインズの言うところの「長期的には我々はみんな死んでいる。」と言う言葉の意味するところであり、その一言に一般均衡理論、そして完全情報への反論の余地のない批判が込められていると言えそう。
完全情報の意味するところ
近似的に現在の経済理論を現実に近づけるためにはどうしたら良いか。まずは、ミクロ的な完全情報とはいったい何を意味するのか、と言うことを考える必要がありそう。個々の主体は、目的合理性に基づけば、自分の目的を達成するために情報を集め、行動する。そしてスポット的な完全情報とは、その目的が達成された瞬間であると言え、短期的に見れば、それが無差別曲線が予算線と接触した瞬間で、それによって取引が成立するのだといえる。つまり、取引の成立が、取引主体にとっての完全情報が成立した瞬間であると、近似的には定義できそう。一方で、長期的には、個々の経済主体は、それぞれのなんらかの文脈、あるいは価値観に従って短期的目的の設定をおこなっていると想定される。そしてその目的達成のプロセスで情報があ集められ、完全情報に至ると取引が成立する、と言うイメージだ。効率的市場とは、その文脈、価値観の相互理解が広まり、部分均衡における完全情報に近い状態が次々に生まれ、取引が活発に行われる状態であると言えそう。
功利主義的価値観の影響
現在の経済学では、その価値観の部分を無条件に功利主義に設定しているので、それ以外の文脈や価値観に関わる取引が停滞し、それが経済自体の停滞につながっているのだと言えそう。つまり、功利主義に基づけば、お金を使うと言う行動自体が更なる利益を産まなければならない、ということになり、そうなると、投資機会が限られるようになると、お金の使い道がなくなってしまうのだ。お金は別にお金儲けをすると言う自己循環的な目的のために存在しているわけではない。それは一義的には価値尺度であり、売るものも買うものもなく、自己増殖させるためならば、そんな尺度は必要ない。定規や測りをいくら持っていても、それ自体他者からの評価対象になるかと言えば、ならないだろうし、むしろ普通に考えれば呆れられるだけであろう。それを集めていったいどうするつもりなのか、と。一方で、交換手段であると定義すれば、他の目的を効率的に達成するために存在しているのだし、貯蔵手段であるとすれば、無差別曲線を予算曲線に合わせる間、その価値を貯蔵するために存在しているのだと言えそう。いずれにしても、お金は使うことが目的のメディアであり、無制限にため、増やすと言う、ウェーバー的プロテスタントの倫理を発現することは、自らに目的がないのだ、と主張しているのに等しいのだろう。
計量化の難しさ
さて、これを計量的に分析できるのか、と言うのはより難しい問題となる。というのは、取引の成立が目的の達成を示すのだとしても、それは別に額によって定まるわけではないからだ。典型的に言えば、消費者は同じものでも安く手に入れられれば消費者余剰が増えるわけだが、それは計量的には顕在化しない。まさにこの問題が昨今のデフレ、物価が上がらない状態によって示されているのだといえる。メンガーが主観的価値理論を数学的に解釈するのは難しい、といったのは、まさにこのためであるといえる。計量化しようと思ったら、おそらく経済学とは別に、個々人の主観的目的達成度合いを評価する、と言う仕組が必要になるのだろうが、それは経済学から離れてしまうことになる。おそらく、経済学的になんらかの指標を用いるのだとすれば、家計の平均支出額をあげ、その偏差を低め、そしてその上で貨幣流通速度を上げる、と言うことになるのではないかと思われる。その結果なのか、経過なのか、いずれにしてもそれによって国民所得は上がるのだろうと思われる。こうすれば、モデルはモデルとして生かした上で、政策についてより効果的なものになるのではないかと考えられる。
なんか最後の方があまり理論的ではない、感覚的な話になってしまったが、とりあえず今のところはこんな感じで考えている。