量子技術の国家戦略化

国家戦略において、量子技術への前のめりの姿勢が報道されるようになっている。果たして量子技術なるもの、国がそこまで入れ込んで投資・育成すべき技術なのだろうか。

これは、何度も書いている通り、私の理解が正しいのかどうかわからないので、思い違いであればぜひ教えていただきたいのだが、量子なるもの、本当に存在するのであろうか。量子とは、波ともいえるし粒子ともいえる性質を持つもので、確率的に存在が観察されるということで、それは果たして物理的存在なのか。個人的感覚では、それは原子の志向性のようなものではないかという気がしており、それを物理的に観察、分析するという考え方自体、少しピントがずれているのではないか、という感じがする。つまり、量子力学とは、原子の志向性について予測を立て、それが当たれば観察され、当たらなければ観察されない、といういわばギャンブル的な学問的行動をそれらしく説明するための方法論ではないかという気がするのだ。

個人的には、それは、原子の方向性というもの自体を研究するには最適な方法ではないような気がする。それを覆い隠すために、そこからさらに進んで、仮説が提示され、それをみんなが信じればその方向で具体的に現象が観察される、という社会科学的伝播過程を説明するものに量子力学自体が変わってきているのではないか、という感じを受けているのだ。つまり、数の力と念の集中で仮説自体を事実にしてしまおう、という、科学とは言い難いほどのマッチョな政治性を正当化するのが量子力学、と呼ばれるものの実態ではないのか、ということだ。

原子の方向性というものを見つけるには、さらに細かい量子という物理的存在からその動きを解明するよりも、多分原子同士の相互作用の仕組を研究するのが最も相応しいのではないか、という気がしている。つまり、量子力学とは、燃焼の原因物質として燃素がある、と仮定していた時と同じような勘違いをしている可能性があるのではないか、という気がするのだ。燃焼は物理的現象ではなく化学的現象であったのにもかかわらず、物理的に燃焼の原因が特定できるはずだ、と推定していたのと同じように、原子の行動が物理的現象であると想定し、それを量子で説明しようとしているのが現状で、それをさらに進めて、説明できる量子があるはずだ、という物理的な量子力学という仮定のフレームワークを先に作り出して、それを完成させることが量子力学である、というトートロジーに陥っているのではないだろうか。

基本的には、相互作用の確率論を科学的に検証するよりも、その確率の仕組を突き止め、いかにしてそれが上がるのか、ということを確かめた方がはるかに科学的だといえる。つまり、例えば日食という現象を、その発生確率を計算するよりも、いつどうやって起きるのか、というメカニズムを解明した方がはるかに科学的なのだといえる。より確率が幅を利かせているものとして、降水確率のようなものを考えても良いだろう。感覚的には降水確率はとてもわかりやすいが、どれくらいの確率で雨が降りそう、というよりも、湿度がどれくらいで、核となる物質がどういう状態になれば降るのだ、という科学的メカニズムの方がはるかに説得的で、それに比べれば降水確率はとても人文学的なやり方なのだといえる。そういう意味で、量子力学とは自然科学への人文学的アプローチだということもできるのではないか。

そんな量子技術の典型ともいえるのが、Googleが開発しているという量子コンピューターで、2019年にはスーパーコンピューターで1万年かかるという問題を約3分で解くという「量子超越」を達成したという。それは凄いことのように聞こえるが、果たして、この問題の検算は可能なのであろうか。スーパーコンピューターで検算している間に、その答えが正しいのかどうかということすらもはやどうでも良くなってしまうような計算に果たして意味があるのだろうか。これこそがまさに答え、つまり仮説を先に提示して、それに合わせて現実を動かしてゆく、という量子力学の実際の姿を典型的に表しているのだといえる。量子コンピューターが正しいといっているのだからそれに向けて頑張れ、正しくなかったとしてもそれは確率の問題だ、などという無責任極まりない理屈が科学の名に値するとは到底思えない。

国家戦略においてこの量子技術への予算投入、育成をする、ということは、未来に関する仮説を国家が全て独占し、その仮説証明についての予算を握ることによってその主導権を奪い取るという、思想統制社会としか言えないものを生み出すことになるだろう。要するに、量子力学とは、物理学的な理論ではなく、社会科学的な、権力による財政支出権限独占による社会統制を正当化し、個人のアイディアの国家による収奪にお墨付きを与える、共産主義異常に悪質な”社会科学”理論だといえるのではないか。未来を全て国家に握られて、下々はそれにたいして人参をぶら下げられて走り続けるだけ、などというディストピアは、少なくとも私にはとてもではないが受け入れられない。

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