ペンネームおよび実名表記について

ずっとEmiko Romanovのペンネームで書いてきましたが、そのやり方に限界を感じているので、その対応を考えながら現状と今後の方針をまとめてみたいと思います。

まず、このペンネームの意味するところですが、世界史を見てゆくのに、第二次世界大戦をどう評価するのか、ということが私にとって大変重要な意味を持ち、その意味で近衛文麿という人物に注目することにし、さらに日露戦争やロシア革命を含め、ロシアの影響というのが日本の近代化に無視し得ない影を落としているということも感じたので、”このえふみまろ”のロシア風のアナグラムで”えみころまのふ”として、そこに焦点を当てるということを表現しました。

それに基づいて様々なことに考えを巡らせた結果、近衛文麿に対しては、基本的にはネガティブではなくポジティブな視点で見ることができそうだ、という結論に達したので、ひとまずペンネームの元々の役割は終えたということがあります。もちろん、本来的にはその理由を説得的にまとめて提示する、というところまで必要なのだとは思いますが、それをやるには様々な方向で様々な問題に対処せざるを得なくなり、ペンネームでやってゆくことに大きな不都合が出てきました。とりわけ、歴史を語るのに実名でやるのか匿名でやるのか、というのはその意味が全く違ってくるということもあり、ペンネーム、しかも性別を誤認させるかのようなもので情報の垂れ流しをすることの不誠実さは、もちろん最初から意図してのものではないとは言え、もはや限界に達したと考えるに至りました。

ただ、このペンネーム自体は非常に気に入っているので、何とか残したいという思いもあり、ペンネームを残してプロフィールに本名を併記するか、アカウント名自体を本名に変えてプロフィールにペンネームを残すか、というので、あるのかどうかはわかりませんが、一応ここまで積み上げてきたブランド力のようなものも残したいという下心から、前者の方法をとることに決めました。見た目上はあまり変わらないこととなりますが、本名併記とすることで、多少なりとも信用度の向上につながれば、とも期待しています。

アカウント名を使い分けることで様々なブランディングができるかも、とも期待していましたが、情報というものの性質上、その信頼度のトレースのようなもののために、結局その使い分けには厳密な論理的パーソナリティの切り分けのようなものを求められるようになり、とてもではないが持続可能ではない状態になりました。私はもっと緩やかな多面的パーソナリティの使い分けのようなことを想定していたのですが、デジタル化によってますます論理性を強める仮想世界のみならず現実世界までもが厳密論理によって迫ってきて、非常に息苦しい世界が具現化してきたのです。

SNSに関しては、匿名や実名の使いわけによって様々な角度から社会と向き合うことができる様になるのでは、と期待していましたが、現実世界には生き馬の目を抜くような厳しい面もあることから、その様な甘い考えはなかなかマネージするのが大変で、なかなか理想だけではうまくいくものではないと実感しているところです。まだまだ情報を交流の核とする仮想世界でのやり取りのルールはしっかりとは定まっていないし、定まっているところでも完全に合理的であるとは言えない部分が多くあると感じます。

その様なルールの策定は、このグローバル時代においては、世界中の文脈の関わり合いの中で行われ、そして新たなルールが生まれてきます。そのために、世界中の文脈をなるべく近しく把握し、新たなルールが本当にフラットで正当な理由づけの元に行われているかということを常にチェックする必要が出てきます。時に複雑に絡み合った文脈を、面倒だからといってエイヤーで強行突破するという様なことがなされ、それは結果としてさらに文脈を複雑化させ、後により大きな禍根を残すことになります。戦争によって問題を解決しよう、というのは、その最たるものであるといえ、それまでの罪をまとめて被らないといけなくなる敗戦国はもちろんのこと、そこで解決したと見せかけた矛盾の上に未来を築いていかなければならなくなる戦勝国側にとっても、あまりに大きな矛盾はいつか自分に跳ね返ってきて、それを解決しないといけなくなってしまいます。戦争で得たものは、結局戦争で守る以外にその正当性を確保するやり方はないだろうと思われ、それが果てしのない報復の無限ループを作り出すことになるでしょう。だからこそ、面倒でも、摩擦がなるべく小さな時、すなわちルール策定段階でのなるべくフラットな仕組みということに意を尽くす必要があり、それによって大きな摩擦や対立、そして紛争を避けることができる様になるでしょう。

とりわけ、今まさに只中に突入している情報時代、私は情報共義の時代と名づけていますが、その時代には、貨幣以上に人に密着したコミュニケーションの媒介である情報が主となって世界中を駆け巡ることになります。それは、貨幣以上に直接に人の心や頭に突き刺さり、わずかな行き違いがすぐに止めようもない断絶に至り後戻りができなくなってしまうリスクを抱える時代となりそうです。そんな時代だからこそ、初期消火が重要で、かつ最初になるべくお互いに寛容である様に心がけることで、その後の継続的に安定的な関係を築いてゆくことができるのではないでしょうか。

最初に寛容であるためには、できるだけ相手の文脈を把握し、理解しておく必要がありそうで、その意味で世界の歴史をある程度一貫した見方で見る習慣をつけるということが重要になってきそうです。その点において、私にとって第二次世界大戦というものをどの様に把握し、理解し、解釈するのか、ということが非常に重要な問題であり、noteでのこの2年半の取り組みを通じて、その問題について一定の道筋をつけられたことは大変大きな成果であったと考えています。

そういうわけで、Emiko Romanovのペンネームは残しながらも、自分のやるべきこともやっていかないといけないので、これまでに大雑把に方向感を示してきた通り、なんらかの形でのビジネスを軸として、今住んでいる地域、もちろんそれ以外の地域にも関わることができたら幸いであるとは考えていますが、その地域を、私が都市地域圏と名づけた、食料とエネルギーを自給できる様な範囲での独立性の強い自治圏として、世界の中にその都市地域圏あり、と胸を張って自信を持って活き活きと生きて行けるような地域にしてゆくよう取り組んでいきたいと考えています。

その中で、このnoteは、割とワイドエリア向けに情報を発信してきたので、基本的にはその路線を維持しつつ、ワイドエリアの議論は場合によっては権力闘争や競争に巻き込まれがちになってしまいそうですが、そんな動きや流れに飲み込まれることなく、自分の方向が安定するように継続的に発信ができてゆけたら、と考えています。

そして、なるべく地方の立場を強化するという自分の考えをその軸として打ち立てて行けるよう舵取りをしてゆきたいと思ってはいますが、ついつい闇雲に走ってしまいがちという癖があるので、どこまでできるのかはわからないし、そしてワイドレンジで片付けないといけないテーマも色々積み残しているので、それらもハンドリングしながらなんとかうまく自分のペースを掴めてゆけたら、と考えています。

引き続きご支持をいただけたら大変嬉しく思います。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。