蓄積の意味

経済学的には、蓄積とは富の蓄積であり、典型的には貨幣の貯蓄ということになる。それは本当に何かを蓄積したことになるのだろうか。

貨幣の機能

富、とりわけ貨幣というのは、その機能としては、食べられるわけでもなく、他に何か役に立つわけでもなく、最終的には単なる交換手段に過ぎず、それ以外に使い道はないといえる。法定貨幣ならば一応交換は保証されるが、貨幣価値は変動もするわけで、インフレとなれば目減りする。それが数字で表されるから何とか目減りしないようにと金利や利回りを求めての投資が行われる。投資が為されても、その投資先が貨幣を使うのは、結局交換価値のためであり、得た貨幣で何かを買ってそれによって生産活動を行い、それを販売して利益を出すということになる。つまり、貨幣自体は延々と交換の輪の中を流れ、それが動くことによって利益を生むのであって、貯蓄として手元に置いておいたところで何の役にも立たない。

蓄積とは

では蓄積とは一体何だろうか。蓄積とは交換価値以外にそれ自体が何らかの意味を持つような物を蓄えることであるといえる。それ自体の持つ価値というのは使用価値であり、その資産を実際に用いることで何らかの付加価値を生じる物だといえる。それは、具体的な財であれば、在庫の様な形で手元にスペアを置いておき、いつでも使える様にしておいたりすることで具現化されるが、それは物理的な場所を取るということもあり、なかなか大量のストックには向かない。
そこで、抽象的な蓄積用資産によって多くの蓄積をするといえるのかもしれない。では、抽象的な蓄積用資産を三つを挙げてみたい。それは、ケイパビリティ、情報、ヒューマンキャピタルということになるのではないだろうか。

ケイパビリティ

まずケイパビリティについては、アマルティア・センの示唆する様な意味から多少広くとって考えると、自分自らでできることであり、それは経験を蓄積することによってさらに磨きをかけてゆくことができる。それはさまざまな方向に展開され、それによってその人の個性が形成されると言っても良いだろう。さらにそれは、社会的制約条件によってできなくなっているものが多くあると考えられ、その制約条件を解放することで自らのケイパビリティの範囲を拡大してゆくことができるようになる。ケイパビリティの使用によって独自技術で生産活動を行うことができるようになり、そこで付加価値が生じることとなる。

情報

ついで情報であるが、これは、インプットの情報ではなく、思考の結果現れたアウトプット用の情報ということである。つまり、思考という過程を経ることで、自らの解釈を加えた情報であり、思考するごとにどんどん蓄積されてゆくことになる。アウトプット用の情報は、表現の機会を待って蓄積される。この情報蓄積のプロセスが、前回見た二種類の思考様式の検討などによりさらに明晰になることで、生産性はずっと上がりそうだ。情報は、表現という形で使用することでヒューマンキャピタルに作用し、自らの認識を社会実装するのに役立つ。

ヒューマンキャピタル

最後にヒューマンキャピタルであるが、これに関しては使用価値という言葉は不適切となる。相互、あるいは相補価値とでもいうべきもので、コミュニケーションによって生じた交流によって、アウトプット方向で認識の社会実装、そしてインプット方向で情報蓄積を加速する。ヒューマンキャピタルは、交流を増せば増すほど拡大し、それが資産蓄積となってゆく。

蓄積用資産の測定

これらの蓄積が行われることで能力開発、情報の取得・発信、そしてヒューマンキャピタルの拡大がなされるが、ここでその蓄積をどのように測るべきか、という問題が発生する。いずれも定量的というよりも定性的な性質が強く、数字ではなかなか測り難い。となると、文脈で判断する必要が出てきそう。そこで、蓄積在庫の棚卸を定期的に行い、文脈を重ねてゆく、という作業が必要になりそうだ。

ケイパビリティについて言えば、財の生産で具体的に表現できるものでなければ、やはり言語化して何らかの形で可視化してゆく必要がありそう。ケイパビリティは文脈の塊のようなものであり、それを切り出して具体化することで、自分自身も何がどこまでできるのかということの確認が取れてゆけそう。

情報については、表現してしまえば関係性記憶によってそこに残るかもしれない。それでも、例えば日記のような形でその日一日を振り返ることで、何をどう表現したのか、あるいはそこで初めて表現するのでも構わないが、それを書き留めておけば、その蓄積は可視化できることになる。

ヒューマンキャピタルは、SNSの様なもので人数を定量化して計測することは可能であるが、人数自体よりもいかに具体的なコミュニケーションを積み上げたか、ということの方が重要になる。具体的にどの様に計測するのか、というのは非常に難しくなる。文章であれば、引用などのコミュニケーションに当たる部分になるのかもしれないが、ヒューマンキャピタル自体は実際の会話などによって積み重ねられるものであり、定量化は簡単ではない。

これらの抽象的蓄積用資産の積み上げがなされることが、貨幣の蓄積よりも重視される様になれば、貨幣至上主義的な経済学的功利主義の方向が多様化し、人が自己実現、自己充足、他者との相補的交流といったことにより多くの価値を見出す様になるのかもしれない。

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