記憶の狭間を埋める旅(2) 大正天皇

早速大正時代についてみてゆきたい。その前史を追うために、まずは大正天皇がご即位されるまでの事績を追ってみたい。

大正天皇(たいしょうてんのう、1879年〈明治12年〉8月31日 - 1926年〈大正15年〉12月25日)は、日本の第123代天皇(在位: 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年〉12月25日)。諱は嘉仁(よしひと)、御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。

Wikipedia | 大正天皇

誕生

明治天皇の唯一の成人した男子である大正天皇の母親は柳原愛子で、明治12(1879)年8月31日の出産時に体調が悪かった彼女はヒステリーを起こし、かつ難産となり、のちに大正天皇となる嘉仁親王は全身に発疹がある虚弱状態で生まれたという。この辺り、真偽関係もわからないし、あるいは愛子の兄で明治維新の時に東海道鎮撫副総督を務めた柳原前光が抱える維新時の秘密が少なからず影響しているのではないかとも感じられるが、維新の時の話は、むしろ大正天皇の伯父に当たる前光の処遇のためにつけられた話が多いように感じるので、ここで深く触れることはしない。

結婚

さて、大正天皇は明治33(1900)年に、九条節子と結婚した。元々は伏見宮禎子女王との結婚が模索され、明治天皇も皇族との結婚を望まれていたとのことだが、結局は九条家からとなった。細かな事情に触れることはしないが、時代背景については、大正時代というものを見るのに重要になってくるのでみてみたい。この結婚問題の推移は、大陸清の情勢に大きな影響を受けていたと言えそう。

西太后

そのころ清では西太后を軸に政治が動いていたと言える。

西太后(せいたいこう、シータイホウ、道光15年10月10日〈1835年11月29日〉- 光緒34年10月22日〈1908年11月15日〉)は、清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)のイェヘナラ(Yehe nala、葉赫那拉、エホナラ)氏の出身。孝欽顕皇后。

Wikipedia | 西太后

西太后は清の初期から皇后を輩出していた葉赫那拉氏出身で、その家系は女系によって清を支えていたと言えそう。

葉赫那拉氏

イェヘ部が滅ぼされたのちもイェヘ=ナラ氏は満州屈指の名族として重んぜられ、多くの重臣を輩出した。またナラ姓の女性は、清の皇族である愛新覚羅氏の出た建州女直とは系統を異にする海西女直の名門であることから、清の後宮に入った者も多く、イェヘ=ナラ氏の妃もたびたび出ている。既にヌルハチがイェヘ部を滅ぼす以前に娶った夫人のうち、第3夫人の孝慈高皇后はのちに第2代皇帝となるホンタイジを生んでおり、また孝慈高皇后の妹もヌルハチの側妃(側室)となってその第8女を生んでいる。乾隆帝の夭折した息子を産んだ舒妃、咸豊帝の後宮に入って同治帝を産んだ西太后も、そうして後宮で皇帝の寵愛を受けたイェヘ=ナラ氏の女性であった。ただその一方で、イェヘ=ナラ氏の中では身分の低い下級官僚の家庭に生まれた西太后が清末に国政に大きな影響力を持ったために、後述する「葉赫那拉の呪い」の伝説も生まれている。

「葉赫那拉の呪い」
西太后に関連して語られる「葉赫那拉の呪い」の物語は、大略で以下のようなものである。

ヌルハチに激しく抵抗した末にとうとう併合されてしまったイェへ部の最後の首長、金臺吉(ギンタイジ)は、臨終に際して、ヌルハチに対して「清朝の一族にたとえ女一人でも葉赫那拉の人間が加われば、そのものがおまえ(ヌルハチ)の一族を滅ぼすであろう」と呪いの言葉を遺して死んだ。清朝はこの呪いを言い伝えて、決して葉赫那拉氏の女を后妃にしないという掟が守られ続けた。ところが清末の咸豊帝が掟を破って葉赫那拉氏の女を妃にした。はたして葉赫那拉氏は咸豊帝の死後に西太后となって権力をほしいままにし、ついに清を滅ぼしてしまったのである。

しかしながら、イェヘ部が滅ぶときに「葉赫那拉の呪い」がかけられたという物語は、清朝の公式の記録や正統的な歴史書には見えず、民間の俗書に載っているにすぎない。また既述のように、西太后まで葉赫那拉氏の后妃が現れなかったというのは明らかに誤謬である。従って、今日の中国の歴史学界では、これは作り話にすぎないという見解が定説となっている。

Wikipedia | 葉赫那拉氏

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