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【ニクソン・ショックを探る】周恩来再論

さて、ここまでみてくると、周恩来の人物像がだいぶはっきりしてきた。やはり、中華人民共和国建国までは、共産党員ではなかった可能性が高そうだ。では、いつ、どのように周が共産党員になっていったのか、ということを探ってみたい。

妻・鄧穎超

ここで鍵を握るのが、妻とされる鄧穎超という人物だ。姓が鄧で、鄧小平と同じなのだが、実は生まれた年も鄧小平と同じで、鄧穎超の方が半年ほど早く生まれている。周恩来とは6つ違いで、五四運動で出会ったとされるが、学生の時に知り合うにしては少し離れているように感じる。そして、周がフランスから帰った後とされる1925年に結婚したという。この年は、鄧小平がフランスで共産党に関わって国外追放になった年である。鄧小平は3度結婚していると言われ、何度も改名しているとされる鄧穎超は実は周ではなく鄧と結婚した何者かで、それで鄧姓を名乗っているのではないか。

歴史的鄧姓

ここで少し歴史を振り返ってみると、鄧姓は後漢の時代に光武帝劉秀に取り立てられた鄧禹という人物がいることから、劉姓の漢とは繋がりがあった。そんな文脈が鄧小平の劉少奇とのコンビ体制につながってゆくのではないかとも考えられる。またそのためか、同じく劉姓の三国時代の蜀の国とも深く関わっているようだが、魏の蜀討伐で指揮官を務めた鄧艾という人物がその後何らかのトラブルに巻き込まれて討たれており、その評価が分かれていた。鄧穎超の母親は楊振德と言い、楊氏であるが、楊氏というのは司馬遷の娘婿となった楊敞の子孫ともされ、その息子の楊惲が『史記』を世に広め、そして楊惲は自分の功績や能力を誇り、また好んで人の隠し事を暴き、自分と対立する者を陥れようとしたので、恨む者が多かった、とのことで、史記史観を押しつけ、それを価値基準として政治に反映させた人物であるようだ。鄧艾は、司馬炎によってその罪を許されており、鄧穎超は、楊氏からのつながりで、それによって恩を着せたのかもしれない。儒教社会においては、そういったことが大きく社会的評価に影響するということがありそうだ。そこで、この鄧穎超という人物が鄧姓を名乗ることで、先祖の話を持ち出して鄧小平に何らかの圧力をかけ続ける、ということをしたのではないか。

養子・孫維世

それはともかく、公式には鄧穎超は周恩来の妻とされている。その間に子供はできなかったが、のちに首相となる李鵬など、多くの烈士子女を養子に迎えて育てたという。その始まりは、孫炳文の娘の孫維世で、父の孫炳文が1926年3月に中山艦事件で逮捕され、一旦周恩来の力添えで釈放され、1年後の27年4月国民党の軍事委員会総務兼軍事部長に就任したが、4月12日の上海事変で再び国民党に逮捕され、殺害されたのちに、当時6歳だった孫維世は、おそらく他の兄弟とともに周恩来に保護されたのだろう。養子といっても、14歳になったら上海に行って演劇を始めており、自由に育てられたようだ。その人生は激動の時代に翻弄され、中国現代史夜明け前後を体現しているようなものだが、細かく触れるには辛い内容が多いので、ここでは触れない。彼女の母親任鋭は1949年に亡くなっているので、母親から奪って養子というのも考えにくく、むしろ家族同然、という意味なのだろうと感じる。そうなると、そこに鄧穎超が入る余地があったのかはちょっとわかりづらい。となると、周恩来との関係はそれ以降ということになるか。

孫炳文

その前に、孫炳文との関わりについて考えてみたい。少し前まで孫維世は孫文の娘であるというような情報だったような気がするが、考え違いかもしれない。いずれにしても孫炳文は朱徳との関わりが深かったようで、孫炳文の姪の陳玉珍が朱徳の奥さんであるともなっているが、朱徳には奥さんが六人くらいいることになっている。孫炳文の実在はともかく、朱徳の方は国民党の中心的人物としてかなりの存在感を持っているので、そちらに焦点を当てて考えるべきなのだろう。朱徳は国民党の中心人物でありながら、共産党でも名を馳せているという、どことなく周恩来と重なるような感じなので、それをみてゆくことで国民党と共産党の関係が見えてきそうだ。

朱徳

孫炳文と朱徳が知り合ったという1922年は、朱徳が孫文に会って独自の軍事組織を持つことを勧めた年でもある。共産党ではこの年に李大釗と朱徳が会ったということで朱徳が共産党に加入したとしているが、そもそも李大釗が共産党員であったかということも甚だ怪しく、あちらこちらで共産党が記録改竄をしていることは明らか。このような情報の混乱が中国社会の混乱の基本的要因であり、清の滅亡後の中国の混乱の責任はほぼ共産党に帰せられるといって良いのだろう。とはいっても、確かにその後朱徳はモスクワ中山大学に行っており、それが共産党員であるとされる大きな理由なのだろうが、すでにこちらで述べたとおり、モスクワ中山大学には蒋経国をはじめとして、国民党の子弟も多く参加しており、モスクワ中山大学に行ったから共産党員であるとは言い切れない。
そんな状態で、1926年に中華民国の政府が置かれていた広州で中山艦事件が発生する。これは、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が突如として広州の黄埔軍官学校の沖合に現れ、国民党内左派・共産党が蔣介石をソ連に拉致しようとしたとされる事件だ。蔣介石はこれを中国共産党員による蔣介石拉致のための策謀と断じ、3月20日艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州の共産党機関を捜索し労働者糾察隊の武器を没収し、広州全市に戒厳令を発した。この事件をきっかけに蔣介石の党内の地位は急速に上昇していくことになった。共産党よりであった汪兆銘は蔣介石の傀儡となることを拒み自発的に辞任して、妻を伴いフランスへ逃れた。汪兆銘はこの後にもフランスに逃れており、本当にフランスまで行ったか、というのは怪しい。広州を拠点としているということで、実際にはフランス領インドシナとの行き来だったのではないか。つまり、フランス領インドシナに共産党の拠点もあり、蒋介石もそこに拉致しようとしたのではないか。広州は、革命以来何度も中華民国の政府が置かれており、孫文没後には汪兆銘が中心となって「国民政府」を打ち立てたわけで、中華民国政府ではなくなったことから、それは国民党というよりもむしろ共産党的な色合いが強く打ち出されたものであったといえそう。いずれにせよ、それで孫炳文が逮捕されたというのは、共産党だから逮捕されたというよりも、むしろ共産党側に拉致されそうになって、それを蒋介石側の周恩来らに助けられた、ということなのではないか。それは、その後に蒋介石が実権を握った国民政府で軍事委員会総務兼軍事部長に就任したことからもみて取れ、それに対して拉致側の共産党系勢力が四・一二事件すなわち上海クーデターで捕まえ、殺害した、ということなのだろう。いずれにしても、全体的に何となく筋が通らないので、蒋介石と周恩来の関係が悪かった、ということにするためにどこか作られているように感じる。

国共合作の崩壊と謎の中国共産党の曙

27年4月18日、蔣介石は南京にて国民政府を樹立し(南京国民政府)、共産党を受け入れている汪精衛(武漢国民政府)と対立した(寧漢分裂)。8月1日には南昌蜂起が起きた。朱徳はこれを主導したとされ、そしてこの8月1日を持って人民解放軍の創設記念日となっているのだが、この戦いの様子はあまりよくわからない。共産党のシンパは南下し、広州へ向かったようだが、朱徳はどうもそのまま北伐に参加したのでは、と考えられる。となると、おそらく周恩来も同じく南昌から北伐参加したと思われる。一方で、12月11日に共産党は広州で武装蜂起を決行し、共産党シンパの労働者、農民を主体に都市ゲリラ戦を繰り広げた。蜂起は失敗しわずか58時間で鎮圧された(広州蜂起)。事件がソ連の広東総領事館によって計画指揮されたことが明白になったので、南京政府はソ連と国交断絶し、各地のソ連領事館の手入れを行い、広東、漢口では領事が捕縛監禁された、ということで、ここで共産党とは袂をわかっている。この事件によって汪兆銘は責任をとって政界から引退し、またもフランスに逃れたという。ここから蒋介石が非常に目立ちだすのだが、実際には国民党は朱徳と周恩来の部隊の方が主導していたのではないか。そして実は第二次国共合作とは、この朱徳・周の勢力が蒋介石の国民党政府に合流したということを意味しているのでは。だから、そのあたりで朱徳・周は共産党であった、ということにならざるを得なくなり、だから結果的に戦時中から共産党であった、という話になったのでは。

李鵬

もう一人養子として名が挙がっている李鵬だが、李鵬本人が2014年7月に出版された回顧録(1928-1983)の中で述べているように、こちらは本当の養子ではないように感じる。李鵬の父の李碩勛は、確かに朱徳とともに南昌蜂起に参加したようだが、その後は行動を別にし、上海方面で活動したらしい。父親が亡くなった時には李鵬はまだ3歳で、その時に父親とは別行動で朱徳・周と行動をともにしていたとは考えにくい。その後も周に会う機会としたら、第二次国共合作以降のことになり、特に直接の面識もないのにいきなり養子というのは唐突にすぎる。さらには、李鵬は後に1948年から1955年までソ連に留学し、モスクワ科学動力学院で水力エンジニアリングを学んでいるというが、ソ連の水力がらみはトロツキストが幅を利かせており、周恩来とは明らかに相性が悪い。李鵬は後に三峡ダムを積極推進しており、計画当初から毛沢東が主導し、周恩来はどちらかといえば慎重派だったと見られるので、そこでも政策的に全くあっていない。つまり、李鵬は周恩来の養子であるということにして、周恩来亡き後に急速に出世し、後から違いました、と自己申告しているわけで、意図的に周の名を利用したのだろう。これはおそらく鄧穎超が主導したことであり、周恩来の養子というよりも、鄧穎超の養子であったと考えた方がスッキリする。

鄧穎超

鄧穎超はそのずっと後、周恩来が膀胱癌になった時、治療役の四人のうちの一人に選ばれている。本当に妻だったのならば、そこでわざわざ治療役として名前が上がることもないだろうから、おそらく妻でも何でもなく、むしろ治療の名の下に周が毛沢東よりも先に亡くなるようあれこれ手を回したのではないか、という疑いすらも感じさせる。つまり、周と鄧穎超は何の関係もなく、妻だとしているということは、養子とされる孫維世の殺害に関わったのでは、とも考えられる。これは、江青が主犯であるとされるが、周恩来の署名入り逮捕状によって逮捕され、死に至っている。周がそんな逮捕状に署名をするとはよほどの何かがあったと考えられ、鄧穎超が何か吹き込んだのではないかと疑われる。この死が周に与えた精神的ショックの大きさは想像を超えるものがありそうで、それで死期が早まったということはありそう。

ちょっとまだ推測ばかりで、はっきりしたところはわからないが、戦前戦中の話に深入りすると身動きが取れなくなってしまうので、この辺りで戦前については切りにしておきたい。戦後の建国までの話も微調整したいが、内容的にはともかく、調査としては微調整では済まなくなってしまいそうな気がするので、それも触れずにおくことにする。やはり中国の歴史は非常に多面的なので、なかなか一直線というわけにはいかないし、そして一旦突き進むとすぐに迷路にはまり込んでしまうので、慎重に進んでゆく必要がありそう。

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