情報の絶対的不完全性

昨日書いた日銀の金融緩和について、中日新聞によると指値オペは3年半ぶりとのこと。別に新たな手法などとどこにも書いてあったわけでもないので良いのだが、情報は常に解釈と共にあるということで、その意味で発した情報が完全にそのまま他者に伝わるということは基本的にはないのだろう、ということを感じた。

特に新聞などが、行間を読ませる、ということを一つの編集テクニックにして、それによって全体構造の中での記事の意味を推測させるということをしているときに、一体完全な情報とはどこに存在するのであろうか。完全な情報とは、基本的に文脈に依存することなく、それだけで内容が完結する情報であると言えるのだろう。それに対して行間とはそこに表しきれない文脈であると考えると、あえて行間を読ませるということで、文脈をわかれ、という暗黙の圧力をかけていることになる。つまり、日々情報を更新する新聞とは、継続的に追っていないと話が理解できない、非常に文脈依存的な情報なのだといえる。

それは、以前に例として出したThe Economist誌とは根本的に異なるところで、The Economist誌は、くどいほどに背景を説明することで、理解するのに骨は折れるが、継続して読んでいなくても、個別の記事の情報の完全性が非常に高く、それだけでほぼ内容が把握できる。この情報の質の違いは、社会にもたらす影響としては非常に大きいのだといえる。英語の情報が現在の世界の基準になっているというのは、このような基本的なニュース情報の圧倒的な安定性に基づいているといえるのではないか。

もっとも、日本の新聞は、特集にしても背景説明よりもルポのような現実解釈を得意にしているように見受けられるので、本質的に方向感が違うのだろう。それは非常に微分的な報道だと言え、断面を切ればそのような見方もできるのかもしれないが、それは一方的な文脈を前提としているように感じられ、そしてその文脈が明示化されていない以上、暗黙の文脈を押し付けての現実解釈だと評価せざるを得ない。日刊紙のペースに慣れているために、特集も近視眼的な物になってしまうのだろうか。それとも意図して背景を出したがらないのだろうか。

さて、情報が基本的に不完全、しかもその不完全さには常になんらかの意図が含まれているときに、経済そして社会の基本である信用はどこから生じるのであろうか。具体的に例を挙げれば、政治家が事実に基づかない公的発言をし、それをマスコミが正すこともなく、むしろそれに乗っかる形で自らの構図の中で積極的に利用しているとき、その社会に信用は生まれうるのか。その事実に基づかないレトリックを完全情報にするために利益によって誘導し、それに従ってゲームを繰り広げるのが政治報道におけるゲーム理論的な世界で、それが民主主義を構成するのだとでもいうのだろうか。つまり、どうせ完全情報などないのだから、最初から不完全情報で、その不完全情報を完全(つまり権力者の考えに近い物)に近づけたものが(政治的)利益を得る、というのが政治報道ゲームの導く世界なのだろうか。それはあまりにインモラルで、そのような物に切り開かれる先になんらかの明るい展開が広がっているとは到底思えない。

果たして、不完全情報に従って踊り、その中で利益を極大化したものが勝つ、というリアリティを数学的に記述できるのであろうか。そしてそれが人の幸せや社会の厚生拡大になんらかの貢献をするということを論理的に導き出せるのであろうか。私にはそのような離れ業が可能であるとは考えられない。データに基づいて数学的に合理的に社会を運営しようとするのならば、この基本的な、情報は必然的に発信者に有利となるような傾向を持っている、という事実をなんらかの形で数学的にモデルの中に織り込んだ上で、それを中和するようなメカニズムを取りこまないと、情報を単純に信じれば信じるほど馬鹿を見る、というなんのことだかよくわからない情報化社会がやってきてしまうことになる。

そして、数学的モデルにしようがしまいが、特に政治家、そしてそれを社会に伝えるマスコミが、レトリックで情報を弄ぶということをどう考えるのか、ということを整理しないと、信頼に基づく経済社会は形成されようもない。それは実体経済の停滞が、金融ではなく、もっと根深い情報レベルで起こっているのかもしれないということを示唆しているのではないいだろうか。

人が、そしてその発する情報が、必ず主観に基づくが故に、自らに有利になるという傾向から逃れられないときに、果たして代表制間接民主制は合理的に機能しうるのか。なぜ特定の代表者を有利にするために法によって権力を付与し、それに従う、という仕組みにする必要があるのだろうか。人ではなく、具体的政策であれば、レトリックが含まれようがなんであろうが、書かれた以上のことは論理的にできないが、特定の人がその論理の上に立つと、言葉の解釈次第でなんでもできるようになってしまう。そのような仕組みは、特に代表者が一般の人々の手に届かないところに行ってしまえば、もはや機能のしようがない。個々人がなんの影響力も及ぼすことができない”代表者”は独裁的権力者以外の何者でもない。そのような仕組みは明らかに限界を迎えているのであろう。

そのような階層的論理構造の中では、論理解釈の隙が利益の源泉となるために、嘘によって人を他の論理に迷い込ませ、いわば騙すことから利益が生じ、そしてそれを取り戻すことが正義である、というような善悪二分法的な世界となるが、私にはそれが人に幸せをもたらすとはとても思えない。それを防ぐために、一つにはとにかく言葉の信頼を取り戻すこと、特に公職者や影響力のある情報発信者にはそれが求められるのだろう。そしてもう一つにはたとえ言葉が完全でないにしても、それが権力などを通して不必要に拡散し、利益の源泉として作用することのないようにすることが必要になるのだろう。

人を豊かにする情報化社会をいかにして成り立たせることができるのか。急速な技術進歩にただ踊らされることなく、それをもう少し落ち着いて考えるべきときであるのかもしれない。

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