明治のお雇い外国人(3)
世界史の方がなかなか追いついてこないので、もう少しお雇い外国人を見てゆきたい。今回は銀行と外交から選んでみた。
アレキサンダー・アラン・シャンド
正確には国立銀行条例は11月に出ているので、条例の発布前にシャンドが登用されていることになる。国立銀行の設置については、株式会社改革への道1 銀行制度の確立でも書いた通り、アメリカ式を主張する伊藤博文とイギリス式を望む吉田清成との間で議論があったとされ、結局アメリカ式のものが導入されている。ただし、伊藤は岩倉使節団で、吉田は外債募集のために訪米中であり、大蔵卿の大久保利通も岩倉使節団に参加していたので、一体誰がシャンドを登用したのか、という疑問が残る。吉田の訪米については英語版とは情報が違っているので、注意が必要だ。ただ、その時期には全員がアメリカにいたことになり、現地で採用したという可能性もある。しかし、そのような状態で、誰も責任者がいないのに、国立銀行条例を出すことができるのか、というのは大いに疑問。それが本当に出たのか、ということも含めて更なる検討が必要になる。
これでは上記『銀行簿記精法』がシャンドの留守中に刊行されたことになる。
小野組破綻の直前に帰国復職というのはあまりにできすぎている。小野組の破綻については、シャンドが一時帰国したちょうどその頃大蔵卿に就任した大隈重信の下で小野組に対する監督体制が強化されており、その結果としてのいわば計画通りのものだったと言える。それに対してその反対勢力がシャンドを呼び戻すことでその流れを逆転させようとしたものともみられる。
国立銀行条例からその設立に至る流れにはまだまだ隠されていることが多くありそう。引き続き迫っていければ、と考えている。
このあたりも全体的に話ができすぎている。
シャンドを選んでみたものの、情報が安定しておらず、どうにも信用できる状態にはない。
銀行制度の成立からその安定に至るまでは、様々な整理できないようなことがあるので、このような外国人像を作り上げる必要があったのかもしれない。
Wikipediaは比較情報のある一般情報については目安になるが、比較するものがないと、どうしても作り話色が色濃く出てしまう。情報化時代にはもっと多様な情報が公開され、比較対象できるようになると、もっと認識が豊かになってゆくだろう。
ヘンリー・デニソン
日本にきて23歳かそこらでいきなり領事館裁判所判事というのもおかしな話。そこで、その後に出てくるデロングについてみてみると、