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「デジタル化」の光と影

2021年(令和3年辛丑)9月20日の中日新聞4面考える広場で、「デジタル化」の光と影の論説集があったので、それについてコメント。

まず、名古屋国際工科専門職大学教授の山本修一郎氏の「コロナ禍 変革の契機」について。全く大学の先生は暢気というか、気楽というか、こんな人が人材育成に携わっているようでは、DXもなかなか進まないだろうな、と感じる。一体、デジタル変革を超えて生き残っていける企業はわずか8%という無責任な数字は、誰がどのような根拠で出したのか。煽りにしてもあまりに酷い数字で突っ込む気も起きなくなってしまう。どうせ8%しか生き残れないのならば、何のために必死になってデジタル変革に取り組む必要があるのか。やるだけ無駄の変革に、一体誰がやる気になるものか。電話とファックスだけで受注している中小企業、電話にしろファックスにしろ、相手があるからできるのであって、好き好んでやっているわけでもあるまい。電話やファックスに勝る利便性も提供できなくて何を馬鹿なことを言っているのか。やるだけの価値があると思えばやるが、価値がないと思うからやっていないだけの話だろうに。なぜ自分の視点でしか見ることができないのだろうか。9割くらいの企業がデジタル技術の使い方をわかっていないとのことだが、そもそもデジタル技術の使い方とはいったい何なのか。ワード、エクセル、インターネットができればデジタル技術の使い方なのか、いやいやSNSをガンガン使いこなせなきゃダメだ、という話なのか、システム全部クラウドに乗せてからだ、ということなのか、ゴリゴリコーディングで独自システム運用しなきゃダメなのか、いやむしろそんなことをしちゃダメなのか。しかもデジタル技術なんて日進月歩なんだから、使い方がわかるという状態が果たして存在するのかもわからない。ざっくりすぎて、いったい何の話をしているのかさっぱりわからない。よくこんな文章を新聞に載せる気になるものだ。書く方も書く方だし載せる方も載せる方だ。DXの本質が古い企業文化から脱却することだ、などとご高説を垂れている暇があったら、自分の古い頭からまず脱却しようと努力すべきではないのか。

ネタにあまり過剰に反応していても仕方がないので、次の慶応大法科大学院教授の山本龍彦氏、「リスク対応 今後の鍵」。こちらはまあ概ねその通りなのだろうが、重要なことを見落としているのか、意図的に目を向けさせないようにしているのか。欧州のように個人情報の保護が基本的人権として正面から捉えられることが重要だ、としているが、それはそうだし、欧州での議論の中心がどのようなことになっているのか真剣に追っていないのでよくわからないが、基本的人権は、個人情報の保護ではなく、デジタルアイデンティティなのであろう。個人情報を取られないようにする、というのはあくまでも対症療法であり、本質的には、デジタル情報で確認されるものが本人であるということをいかに確保するのか、ということであるのだろう。「自己情報の主体的コントロール」という基本原則は、そもそも自己が自己であるということが確認されて初めて成り立つ話であり、そこをどのように管理するのか、という社会的テーマ、むしろそれこそがここで話をされているような大学の先生方がもっと真剣に取り組まないといけない話であり、そこが不安定なままDXに突っ走ろうとしていることが大きな問題なのだろう。言葉にするとあまり違いが明らかにならないように感じるが、情報を自分で管理し、他に取られないようにする、というテクニカルな話と、情報そのものの主体が誰であるのか、というのを正確に把握する、という問題は全く次元の違う話であり、この文章からではこの教授自身がそのことに無頓着であるように感じる。私の読み違いならばそれはそれで結構なのだが、DXに対する漠たる不安感の根源というのは、そんなところにもあるのではないか、という気がしたので、一応書いておく。

最後の作家の上田岳弘氏の「知の旅の行き止まり」。書いてあることは、なるほど、と読ませてもらい、そして現実もまさにその通りに進んでいるのではあろうが、果たしてデジタルによってそこまで心、感情をギリギリまで切り刻まれることが幸せなのだろうか。感情は、もっとその折々に様々な方向に展開するものであり、常にギリギリまで迫られて、お前はこれだろ、と問い詰められ続けるのが、それ自体人間本質に沿った科学技術の進歩なのか、というのは大いに疑問に思う。そんな方向にしか進歩させられないのならば、それ以上の進歩はいらないのでは、という気すらする。デジタルにも、もっと他の進化の仕方、多様な感情、多様な関わり、多様な自我意識と言ったものをもっと重視するようなあり方があっても良いのではないのだろうか。そのあたり、文学にはもっとなすべきことがあるように感じる。現状そのように進化しているからそうなのだ、ではあまりに悲しいし、しかもそれが行き止まりであるとしてしまうのは、まさに文学の終焉なのではないだろうか。

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