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記憶の狭間を埋める旅(12)

中華民国の建国

まだまだ第一次世界大戦の直接原因のところが終わっていないが、そろそろ大正時代についてみてみたい。こちらでは国内を中心にみてゆくが、アジアについては随時取り上げてゆきたい。今回は、大正時代に入るのに少し先立って建国された中華民国についてみてみたい。

1912年7月29日夜、明治天皇が崩御。皇太子は7月30日午前1時に践祚、大正(たいしょう)と改元した。

明治45(1912)年7月に明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位した。この年は中華民国の建国に始まり、溥儀の退位による清の滅亡といった年初の中国での動きから始まり、その後の動乱への萌芽がさまざまな形で芽吹いた年だった。

中華民国

中華民国は1912年1月1日に正式に建国された。辛亥革命は1911年10月10日の武昌起義から始まり、清の打倒に成功し、中国での2000年以上の帝政支配を終わらせた。

共和制は、中国の最後の王朝である清を打倒した辛亥革命後の1912年1月1日に宣言された。1912年2月12日、摂政孝定景皇后は、溥儀皇帝に代わって退位令に署名し、数千年にわたる中国の君主制を終わらせた。国父であり臨時大総統である孫文は、北洋軍の指導者である袁世凱に大総統を引き継ぐ前に、短期間務めた。宋教仁率いる中国国民党が1912年12月の議会選挙で勝利した。しかし、宋教仁はその直後に袁世凱の命令で暗殺され、袁世凱が率いる北洋軍は北京政府の完全な支配を維持した。

Wikipedia | 中華民国

1909年初めに醇親王は、兄である光緒帝を裏切って戊戌変法を潰したとして憎んでいた北洋大臣兼直隷総督の袁世凱を失脚させ、さらに袁世凱を殺害しようとしたが、内部情報を得た袁世凱はかろうじて北京を逃れ河南省彰徳に蟄居することとなった。
その後袁世凱は、清国政府による民間資本鉄道の国有化とその反対運動をきっかけに1911年10月10日に辛亥革命が勃発すると、湖北省の武昌で起きた反乱(武昌起義)の鎮圧を名目に政界に復帰した。袁世凱は清国政府に第2代内閣総理大臣の地位を要求するとともに、醇親王の摂政王退位を要求した。
反乱鎮圧のために袁世凱の武力に頼らなければならない清朝政府は袁世凱の要求を受け入れたが、袁世凱はさらに孫文らと、宣統帝を退位させる代わりに自らが中華民国臨時大総統に就任するという裏取引をし、隆裕皇太后に溥儀の退位を迫り、隆裕皇太后は皇族を集めて連日御前会議を開いた。
その席上粛親王善耆、恭親王溥偉などは退位に激しく反対したが、清朝皇族が頼りとしていた日本の陸軍士官学校留学生で皇族出身の良弼が暗殺されるという事態におよび、隆裕皇太后はついに皇帝退位を決断し、1912年2月に宣統帝は退位することとなった。粛親王は日本租借地の旅順へ、恭親王はドイツ租借地の青島に逃れてその後も清朝復辟運動を行った。

Wikipedia | 愛新覚羅溥儀

1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。

Wikipedia | 孫文

宣統3年(1911年)10月、辛亥革命が勃発。華中・華南では革命派優位で情勢が推移した。朝廷内の満洲貴族らも袁世凱のほかにこれを鎮圧できる人物はいないと判断し、清朝の第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命するとともに、反乱軍の鎮圧を命じた。袁世凱は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方で革命派と極秘に連絡を交わした。そして自らの臨時大総統就任の言質を取るや革命派に寝返り、朝廷の要人に政権の交代を促した。こうして宣統4年(1912年)2月12日、宣統帝の上諭が発布されて清国最後の皇帝が退位、清朝は滅亡した。同年2月15日、議場での満場一致により、袁世凱が新生中華民国の臨時大総統に就任した。

Wikipedia | 袁世凱

このように、中華民国の成立は一体誰が主導権を取っていたのか非常にわかりにくい。初代大統領の孫文は蜂起の当時アメリカにおり、一方二代目大統領の袁世凱は清朝からの反乱軍征伐を指揮していながら反乱軍と手を組んで清を滅亡させている。

武昌起義

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