認識の定量的把握は可能か
何もかもがデータ化される時代、そのデータとなる元の人間の認識を定量的に把握しようという誘惑に駆られる人は多いのかもしれない。しかしながら、人の認識が数学的空間に基づいてなされていると想定し、それを定量的に把握しようとする取り組みは果たして可能なのであろうか。
共通の認識空間意識がもたらした近代化
フェルマーによって空間座標が想定されて以来、数学的に定義可能な空間認識によって認識の共通化を図ろうという取り組みは、近代化への道を切り開き、それはそのまま現在のデジタル社会の基盤の大きな部分を占めているといえるのだろう。確かに認識空間が共通でそれをもとに話をする、というのは、お互いの理解を共通化させるのに非常に都合が良い。典型的には土地保有の範囲を定めるのに、共通の空間認識をベースにして行えば、それは客観的に定められたものだと主張しやすくなり、それによって私有財産制というのが共通の認識基盤に基づいて保証されるようになったのだといえるのかもしれない。
共通の認識空間の錯覚
しかしながら、客観的に見えるかもしれないその認識空間は本当に同一であるといえるのだろうか。それが確保されないから認識の相違による争いが発生するわけであり、実際には認識空間が同一であるということは、実際的にも、理論的にも、根拠があるわけでもなく、証明できるものでもないだろう。そうだからこそ、その同一性を確保するために、人の認識を、共通空間認識を前提として定量化する、という誘惑に駆られる人が出てくるのであろうが、それは前提自体が誤っている可能性があるわけで、それをもとに定量化を行っても共通認識には至らず、むしろ根本的な争いにつながる可能性すら出てくる。
絶対的空間認識が定義する絶対的劣位
空間認識が絶対であると定義すると、忘却や記憶違いの起こる人の認識の方が絶対的空間認識に劣るということになってしまう。しかし、空間認識というのは結局のところさまざまな人の認識の合成であると言え、その元となっている諸認識がそれらによって合成された空間認識よりも劣るということになれば、合成すればするほど無限の劣化ループが起こることになってしまう。つまり、空間認識が絶対であるという定義は絶対的劣位を定義しているのに過ぎない、ということになるのだろう。
その絶対的劣位を基礎としてそれぞれの人間の認識を定量的に把握する、というのは目盛があっているのかどうかもわからない計測器を使って測量を行うようなものであり、それが正しいのかどうか、ましてや客観的であるのかどうかなどということは誰にもわからないし、むしろ違っている、という明白な事実が明らかになるだけなのだろう。
数学による相互理解の不可能性
空間認識の性質がそういったものであるときに、果たしてそれは定量的に把握することが可能なのだろうか。一人の中で完結した空間認識であれば、それは可能なのかもしれない。しかしながら、複数の空間認識が重なり合ったとき、その定量処理は可能なのだろうか。端的に言えば、座標の原点が違う空間が重なり合ったときに、それは同じ数式によって計量することが可能なのか、という問題である。原点が異なれば、当然それぞれの座標を示す数値も異なってくるわけであり、たとえ数式が同じでも、座標が異なれば結果も当然のごとく違ってくるだろう。これはつまり、片方から見て数学的に明らかに合理的であっても、他の立場からは全くそうではない可能性も出てくるということを意味する。
宇宙人との間でも、数学でならば理解しあえる、というようなことも言われるが、実は宇宙人どころか人間同士ですら、数学によって理解し合うことは不可能である可能性(どころか原点が異なれば論理的には間違いなく不可能)があるのだ。そのときに、数学に一体何ができるのであろうか。
解法1:原点の近似化
一つには、前提をしっかりと擦り合わせて、原点を一致とまではいかなくても、なるべく近づければ、近似的には数学的な解が近いものになる可能性はある。現状の社会においては、集団は前提となる価値観をなるべく揃えるという点で、この原点を近づけるという方法でまとめられていると考えられる。しかし、原点が近くなれば見える風景も近くなり、社会から多様性が失われる。そして似たような風景の中で共通目標を追求すれば、それは競争となり、数学によってその競争は一つの解を求めたゼロサムの熾烈なものとなってゆく。
解法2:他者風景の管理
これとは逆に、異なった原点から、他者の風景について眺めることで、他者の進み方を定量的に理解する、ということは可能なのだろう。現状は、管理職的な人がこの他者の風景を管理することで、組織全体の合理性を調整する、という手法を取っているのだと言えそうだ。ただし、それがあまりに定量化しすぎ、自らの風景の中の合理性に他の人たちを組み込もうとすると、個々人の原点から目標への合理性を犠牲にして管理者の設定する目標とそこへの合理性への従属を強いられることとなり、それはこの定量的合理性とは反することになる。
解法?3:自由なミクロ行動と合成の誤謬
一方で、管理的目標設定がない場合には、個々人の合理的目標設定は合成の誤謬を引き起こし、マクロ的な定量的意味を見出すのが難しくなる。経済学ではそれを避けるための方策として計量単位を貨幣に統一し、それによって計った生産力でマクロ的な定量的意味を確保しようとしていると言えるが、合成の誤謬という言葉自体経済学から生まれたのだと考えられ、この手法は必ずしもうまく機能しているとは言い難い。
単純数学的解決の困難さと摩擦低減による消極的解法
つまり、現状、空間認識をマクロ的に把握しようという取り組みはどれもあまりうまくいっていないのだと言え、それが社会と個人との齟齬を生み出しているのだと考えられる。これを解決するためには、二つ目と三つ目の方法の間くらいに、個々人の前提と目標をそれぞれ定量的に提示し、その情報がお互いに共有されることで、二つ目の他者を管理するというのではなくて、互いの合理性を理解し、相互干渉・妨害しないように全体合理性に近づけることができるのかもしれない。そこで他者との協力のメリットが比較優位論のように数学的に提示されれば定量化ができると言えそうだが、実は個の合理性は唯一絶対の指標に基づいているというよりも、さまざまな事柄の複合的要因に影響されていると言えるので、それを単純に定量化するというのは難しいと言える。できそうなのは、お互いの合理性で干渉しあっている部分を明らかにすることでそこで生じている摩擦を低減してゆくということくらいだろう。つまり相互干渉によって生じるロスを定量化してそれを減らしてゆくことでメリットの定量化を図るということは可能なのではないかと考えられ、それが環境問題で行われている取り組み、典型的には脱炭素の定量化といったようなことになっているのではないだろうか。